『春秋公羊傳何休解詁』隠公⑤
原文
傳
最聚也直自若平時聚㑹無他深淺意也最之為言聚若今聚民為投最
訓読
傳
「及」は猶ほ「汲汲」のごときなり。「曁」は猶ほ「曁曁」なり。「及」、我之を欲す、「曁」は已むを得ざるなり。
注
「我」は魯を謂ふなり。魯を内とするが故に「我」と言ふ。「及」と「曁」を擧げるは、當に善悪の意に随って、之を原ぬるを明らかにす。之を欲するは善重く悪深く、已むを得ざるは善軽く悪浅い。心を原ねて罪定まる所以なり。
現代語訳
傳
儀父者何邾婁之君也
注
「公及」と言って諱んでいないことから、君主であることがわかる。
原文
傳
何以名
注
字也
注
以當褒知為字
訓読
傳
曷為稱字
注
据諸侯當稱爵
訓読
傳
以宿與微者盟書卒知與公盟當褒之有土嘉之曰褒無土建国曰封稱字所以為褒之者儀父本在春秋前失爵在名例爾
訓読
傳
之(儀父)を褒めるからである。
注
据功不見
訓読
傳
どうして儀父を褒めるのか
注
為其與公盟也
注
為其始與公盟盟者殺生歃血詛命相誓以盟約束也傳不足言託始者儀父比宿勝薛最在前嫌獨為儀父發始下三國意不見故顧之
訓読
傳
其れ公と盟する為なり
注
始めて公と會盟したからである。盟とは犠牲を殺して、その血を啜り、天命に誓って、互いに誓うことで盟約に拘束力を持たせることである。傳が、(儀父に會盟の)始を託するにもかかわらず、完全な表現をもってしない(為其始與公盟也)のは、儀父が宿・勝・薛と比べて一番前にあるため、儀父のためだけに始といい、下の三国の意志が現れなくなることを嫌って、その点を考慮したのである。
原文
傳
戎・齊侯・莒人、皆公と與に盟するに据る。傳、始を託すに足らず。故に衆に据りて復するなり。
現代語訳
傳
戎・齊侯・莒人といった者も皆公と共に會盟している。傳が、表現を完全にして始を託していないため、(會盟した者が)多いことをきっかけとして尋ねたのである。
原文
傳
因其可褒而褒之
注
春秋王魯託隠公以為始受命王因儀父先與隠公盟可假以見褒賞之法故云爾
訓読
傳
『春秋』は、魯を王とし、隠公に仮託して始めて受命した王とする。儀父が真っ先に隠公と會盟したことに因んで、その事に仮託して褒賞の原則を顯かにしているのである。故に、このように言うのである。
原文
傳
漸者物事之端先見之辭去悪就善曰進譬若隠公受命而王諸侯有倡始先歸之者當進而封之以率其後不言先者亦為所褒者法明當積漸深知聖徳灼然之後乃往不可造次䧟於不義
訓読
傳
『春秋』が儀父を褒めるを可とするはどうしてなのか。漸進しているからである。
注
「漸」とは物事の端緒であり、先んじて現れるという意味の語である。悪を離れて善に移ることを「進」という。例えるに、隠公が受命して王となり、諸侯の中で始めて、首唱して王に帰属する者があれば、進んでこれに封土を加え、(その者を以て)他の諸侯が続くようにするようなものである。「先」と言わないのは、褒める際の義例の為である。ゆっくりと時間をかけて(王の)盛徳の輝く様を深く知り、その後に王の元に往くべきであり、わずかな時間しかかけていなければ、不義に陥ることを明らかにしているのである。
原文
傳
眜者何地期也
注
會盟戦皆録地其所期處重期也凡書盟者悪之也為其約誓大甚朋黨深背之生患禍重胥命於蒲善近正是也君大夫盟例日悪不信也此月者隠推譲以立邾婁慕義而来相親信故為小信辭也大信者時柯之盟是也魯稱公者臣子心所欲尊號其君父公者五等之爵最尊王者探臣子心欲尊其君父使得稱公故春秋以臣子書葬者皆稱公于者於也凡以事定地者加于例以地定事者不加于例
訓読
傳
眜とは何をか期する地なるや
注
「會」・「盟」・「戦」は皆其の期する所の地を録す。期を重んじる處なればなり。凡て「盟」を書すは、之悪めばなり。其の約誓大なるも、甚しくも朋黨深く之に背けば、患禍の重き生ずる為なり。蒲に胥命するに善とし、「正に近し」とす、是れなり。君大夫盟すれば、日を例とす。不信を悪めばなり。此の月は、隠 譲を以て立つことを推すも、邾婁 義を慕ひて来、相ひ信に親しむ故に小信の辭と為すなり。大信とは時。柯の盟是れなり。魯「公」を稱するは、臣子の心、其の君父に尊號を欲する所なり。「公」は五等の爵の最も尊きものなれば、王者は臣子の其の君父を尊ばんと欲する心を探し、公を稱するを得せしむ。故に『春秋』は、臣子の以て「葬」を書するに、皆公を稱する。「于」は於なり。凡て事を以て地を定むるは「于」を例に加へ、地を以て事を定むるは「于」を例に加へず。
現代語訳
傳
眜とは何を約束した地なのか
注
「會」・「盟」・「戦」は、いずれも皆、約束した地を記録する。約束を重んじるからである。一般に、「盟」を記録するのは、悪むからである。(というのも)その約束が尊くて大事だといっても、あってはならない事だが、同盟者がこれに背いた場合に、重大な禍が生じるからである。蒲で胥命した場合に、これを善として「正に近い」と書いているのがその証拠である。君・大夫が盟を行えば、例として日を書く。不信を悪むからである。ここで、月を書いているのは、隠公が国を譲る意志を持って即位したにもかかわらず、邾婁がその義を慕って来、互いに信に親しんだから小信と書くのである。大信の場合は時(四季)を記す。柯の盟がこの例である。魯が「公」を稱するのは、臣子が自分の君父に尊号を名乗ってほしいと心に思ったからである。「公」は五等爵の中で最も尊い称号なので、王者は臣子が自分の君父を尊ぶ心を察して、「公」を稱させているのである。故に『春秋』は、臣の立場から「葬」を書くときは、全て「公」を稱させている。「于」は於である。一般に、盟する事を先に約束し、後から場所を決める場合は、「于」を書き、先に場所を決めて、後から盟することを約束した場合は、「于」を書かないのである。
『春秋公羊傳何休解詁』隠公④
原文
傳
適子を(君として)立てるには、長幼の序によって賢愚によらない。庶子を(君として)立てるには、身分の貴賤によって長幼の序によらない。
注
「適」とは適夫人の子をいう。(適夫人の子は)位の尊卑に差が無いので、年齢によって立てる。「子」とは嫁入りに付き従う左右の侍女及び姪娣の子のことである。こちらは位に貴賤があり、又同時に生まれた場合の混乱を防ぐために身分の貴賤によって立てるのである。禮に「適夫人に子がなければ、右の侍女の子を立てる。右の侍女に子がなければ、左の侍女の子を立てる。左の侍女に子がなければ、嫡夫人の姪娣の子を立てる。嫡夫人の姪娣に子がなければ、右の侍女の姪娣の子を立てる。右の侍女の姪娣に子がなければ、左の侍女の姪娣の子を立てる。質家は親親を旨とするから、先に娣の子を立てる。文家は尊尊を旨とするから、先に姪の子を立てる。嫡子 が孫を残したまま死んだならば、質家は親親を旨とするから、先に嫡子の弟を立てる。文家は尊尊を旨とするから、先に嫡子の孫を立てる。もし双子であれば、質家は出産時の順序によって先に生まれた方を立てる。文家は本始という意趣によって、後に生まれた方を立てる。いずれも、肉親内における偏愛による争いを避けるためである。
*姪とは兄の娘であり、娣とは兄の妹である。
*質家とは質樸を重んじる家(王朝)のことである。
*文家とは文華を重んじる家(王朝)のことである。
*「本意」の意味はよく分からない。質家と文家の基準もよくわからない所である。
原文
傳
桓何以貴
注
(隠公も)桓公も共に公子であるから。
原文
傳
母貴則子何以貴
注
据倶言公子
訓読
傳
(庶子は)等しく公子と呼ばれるから。
原文
傳
禮妾子立則母得為夫人夫人成風是也
訓読
傳
禮に「妾子立てば、則ち母夫人たるを得」と。夫人成風是なり。
現代語訳
傳
及者何與也
注
若曰公與邾婁盟也
訓読
経
三月公及び邾婁の儀父、眛に盟す。
傳
「公と邾婁に盟す」と曰ふの若きなり。
現代語訳
経
都解經上㑹及暨也
訓読
傳
㑹・及・暨、皆與なり。
注
経文にある「㑹」・「及」・「暨」の字を一度に解説したのである。
『春秋公羊傳何休解詁』隠公③
経文「元年春王正月」のつづき
原文
傳
「長」とは冠禮を終わらせていることである。禮では、二十歳で正統であることを示して冠を着けるとされている。士冠禮によると、「嫡子が堂の東側の階段で冠を着けることで、父に代わることを示すのだ。客席で醮の禮を行うのは、大人として成人したことを示すのである。三度冠を着けて、いよいよその格を尊くするのは、その志を諭すためである。冠を着ける時に字を付けるのは、名を敬えばである。公侯に冠禮があるのは、夏の末期に成立したからである。天子の子といえども、士である。天下には生まれながらにして、貴い者はいないのである」とある。
*何休が、「天子之元子猶士也」と言うのは、士大夫の人倫道徳を重んじる公羊学の特徴とも考えられる。
原文
傳
國人謂國中凡人莫知者言恵公不早分別也男子年六十閉房無丗子則命貴公子將薨亦如之
訓読
傳
國人は國中の凡人を謂ふ。知る莫しとは恵公 早くに分を別たざるなり。男子年六十にして房を閉じる。丗にして子無ければ則ち貴公子に命ずる。將に薨するも亦之の如し。
現代語訳
傳
国人とは国中の一般人を指している。知る者がいないとは、恵公が生前に物事の区別を定めていなかったことを指している。男子は六十歳で閨室を閉じる。その時までに世継ぎが居なければ貴公子に命じて養子を貰い受ける。六十歳以前、つまり閨室を閉じる前に死を迎えようとした場合も同様にする。
*「丗」は世の正字であるので、訳文のような解釈が一般的であるようだが、もう一つの意味である「三十」で取ると、「三十歳で子が居なければ(政を担えるまで育てるには時間を要するので)貴公子に命じて(まだ幼い)子を養子として迎え入れる。」という解釈になるかと思う。これでも良いように思う。
原文
傳
此以上皆道立隠所縁
訓読
諸大夫は隠公を推してこれを立てた。
注ここにおいて、隠公は譲る姿勢を見せたが、最後は即位した。
注
「辭」は「譲」である。隠公は、位を(弟に)譲りたかったのである。
原文
傳
この時、公子は隠公と桓公だけではなかったのである。
原文
傳
且つ如し桓立てば、
注
且如は假設の辭なり。
現代語訳
傳
隠 諸大夫の正に背きて己を立つるの不正を見、而してその之を相ける能はざるを恐るる。
現代語訳
傳
隠公は、諸大夫が正(桓公)に背いて、自分を即位させようとする不正の光景を目の当たりにして、諸大夫が桓公を補佐することができないのではないかと恐れたのである。
原文
傳
だから、隠公が即位したのは、いずれ桓公が即位する時の為である。
注
「凡」とは、上述した二つの事が不可能だということである。故に、(隠公は)自分が即位して、桓公が成長した暁には、彼に位を返すつもりなのであった。故に、「桓公の為に即位した」といい、国を継承する野心があったわけではないことを明らかにしているのである。故に、「即位」を書かないのは、(隠公の)譲の心を表すためである。
原文
傳
据賢繆公與大夫貜且長以得立
訓読
傳
『春秋公羊傳何休解詁』隠公②
原文
傳
以上繋於王知王者受命布政施教所制月也王者受命必徙居處改正朔易服色殊徽號變犠牲異器械明受之於天不受之於人夏以斗建寅之月為正平旦為朔法物見色尚黒殷以斗建丑之月為正雞鳴為朔法物牙色尚白周斗以建子之月為正夜半為朔法物萌色尚赤
訓読
傳
上の字の「王」に繋がっていることから、王者が受命して政教を施す際に定める月であることがわかる。王者が受命したならば、必ず居住地を移し、服の色を変え、旗を特別にし、犠牲の種類を変え、器械を異なるものにすることで、命を天より授かり、人から授かったわけではないことを明らかにするのである。夏は、斗が建寅の方向を向いている月を正月とし、平旦を朔とし、植物の芽が地上に現れるのにのっとって、色は黒を尚んだ。殷は、斗が建丑の方向を向いている月を正月とし、鶏鳴を朔とし、植物の芽ができるのにのっとって、色は白を尚んだ。周は、斗が建子の方向を向いている月を正月とし、夜半を朔とし、植物が活動し始めるのにのっとって、色は赤を尚んだ。
*『春秋繁露』三代改制質文篇を参照
原文
傳
据定公有王無正月
訓読
傳
統者始也㧾繋之辞夫王者始受命改制布政施教於天下自公侯至於庶人自山川至於草木昆蟲莫不一一繋於正月故云政教之始
訓読
傳
「統」は始である。全てを繋ぐ字である。王者が始めて受命し、制度を改めて、政教を天下に施すと、公侯から庶人に至るまで、山川から草木昆虫に至るまで、一つに統合されないものはない。一は全てを繋ぐ字である「正月」に繋がっている。故に(「正月」は)政教の始まりを言うのである。
原文
傳
据文公言即位也即位者一國之始政莫大於正始故春秋以元之氣正天之端以天之端正王之政以王之政正諸侯之即位以諸侯之即位正竟内之治諸侯不上奉王之政則不得即位故先言正月而後言即位政不由王出則不得為政故先言王而後言正月也王者不承天以制號令則無法故先言春而後言王天(刊本では夫となっていたが、岩本本に合わせる)不深正其元則不能成其化故先言元而後言春五者同日並見相須成體乃天人之大本萬物之所繋不可不察也
訓読
傳
文公 即位を言うに据ればなり。「即位」とは一國の始まりなり。政は正始より大なるは莫し。故に『春秋』、元の氣を以て天の端を正し、天の端を以て王の政を正し、王の政を以て諸侯の即位を正し、諸侯の即位を以て竟内の治を正す。諸侯上に王の政を奉ぜずんば、則ち即位するを得ず。故に先に正月を言ひて、而る後に即位を言ふなり。政 王に由りて出でずんば、則ち政を為すを得ず。故に先に王を言ひて、而る後に正月を言ふなり。王者 天を承けるを以て號令を制せずんば、則ち法無し。故に先に春を言ひて、而る後に王を言ふなり。天 深く其の元を正さずんば、則ち其の化成る能はず。故に先に元を言ひ而る後に春を言ふ。五者 同日にして並び見え、相須く體を成すべし。乃ち天人の大本にして、萬物の繋ぐる所なり。察せざるべからざるなり。
現代語訳
傳
隠公にはどうして「即位」を言わないのか。
注
『春秋公羊傳何休解詁』隠公①
「傳」は公羊傳を指し、「注」は後漢の儒学者である何休の施した注釈である。
原文
経
以常録即位知君之始年君魯公隠公也年者十二月之揔號春秋書十二月稱年是也變一為元元者氣也無形以起有形以分造起天地天地之始也故上無所繋而使春繋之也不言公言君之始年者王者諸侯皆稱君所以通其義於王者惟王者然後改元立號春秋託新王受命於魯故因以録即位明王者常繼天奉元養成萬物
訓読
傳
通常、即位を記録するから、君の最初の年であることがわかる。君とは魯公の隠公である。年とは十二月の総称である。『春秋』も、十二月を年と表記するのである。一は「元」に変えている。「元」とは気である。無形がそれによって起こり、有形がそれによって分かれる。(「元」)は天地を創造する、天地の始である。故に(「元」の)上に繋げるものがなく、(下に)春を繋げるのである。「公」と言わずに「君の始年」と言うのは、王者・諸侯ともに「君」と称しており、「公」では王者の意味が出ないからである。王者であって初めて「元」を改め、その後、號を立てることができる。『春秋』は新王の受命を魯に仮託したため、それに因んで即位を記録することで、王は常に天を継ぎ元を奉じて万物を養うべきであることを明らかにしたのである。
原文
傳
春者何
注
歳之始也
注
以上繋元年在王正月之上知歳之始也春者天地開辟之端養生之首法象所出四時本名也昬斗指東方曰春指南方曰夏指西方曰秋指北方曰冬歳者揔號其成功之稱尚書以閏月定四時成歳是也
訓読
傳
歳の始である。
注
王とは誰を指しているのか。
注
据下秋七月天王先言月而後言王
訓読
傳
2023年を迎えて
あけましておめでとうございます。
2022年は自分でもかなり勉強したなと思う年でしたが、今年はそれを継続しつつ更に深くしていきたいですね。
22年の前半は中国思想の本しか読んでませんでしたが、後半から徐々に西洋の哲学にも目を向け始めており、23年もその方針は継続の予定です。ただ、あまり細かな流れがわかっていないので、やっぱり古代ギリシャからゆっくり読んでいこうかなと(古代はいつだってロマンがありますし)。今は、御子柴先生が解説している『純粋理性批判』を読んでいますが(十二分に難しい…)、目処が着いたらアリストテレスの『形而上学』に行くつもりです。本当は、現象学や中世の哲学も勉強したいですが、順番は大事ですからね。これは中国思想を一年と少し勉強してきて痛感したことです。
もちろん、中国思想の勉強も去年以上に力を入れていきたいです。特に22年の終わりらへんで論文読み出したことがきっかけで、漢代の思想史への興味が凄く湧いていますし。目標は鄭玄に据えつつ、司馬遷・劉向・班固・馬融・盧植などなど、広く学んでいけたらいいなあと思います。卒論のテーマも決めなくてはいけませんしね。
それでは、皆様、今年もよろしくお願いします。
P.S.経書の筆写は今年も継続します。目標は五経を一つ終えることですかね。
『史記』夏本紀第二 (2)
今回は前回からの続きになります。
*アンダーラインを引いている箇所は自信の無い箇所です。
【原文】
當帝堯之時、鴻水[一]滔天、浩浩懷山襄陵、下民其憂。堯求能治水者、羣臣四嶽皆曰鯀可。堯曰「鯀為人負命毀族、不可。」四嶽曰「等之未有賢於鯀者、願帝試之。」於是堯聽四嶽、用鯀治水。九年而水不息、功用不成。於是帝堯乃求人、更得舜。舜登用、攝行天子之政、巡狩。行視鯀之治水無狀、[二]乃殛鯀於羽山以死。[三]天下皆以舜之誅為是。於是舜舉鯀之子禹、而使續鯀之業。
[一]索隠 一作「洪」。鴻、大也。以鳥大曰鴻、小曰鴈、故近代文字大義者皆作「鴻」也。
[二]索隠 言無功狀。
[三]正義 殛音紀力反。鯀之羽山、化為黄熊、入于羽淵。熊音乃来反、下三點為三足也。東皙發蒙紀云「鼈三足曰熊。」
【訓読】
當て帝堯の時、鴻水滔天し、浩浩として山を懷し陵を襄せば、下民其れを憂ふ。堯能く水を治むる者を求るに、羣臣四嶽皆曰く鯀可なり、と。堯曰く「鯀の人と為りや命に負ひ族を毀す、不可なり。」と。四嶽曰く、「之と等ぶるに未だ鯀より賢なる者有らず、願ふ帝之を試さんことを。」と。是に於いて堯四嶽を聽き、鯀を用ひ水を治めしむ。九年にして水息まず、用ふるの功成らず。是に於いて帝堯乃ち人を求め、更に舜を得る。舜を登用するや、天子の政、巡狩を攝行せしむ。行きて鯀の水を治むるに狀無きを視、乃ち鯀を羽山に殛し以て死せしむ。天下皆舜の誅するを以て是と為す。是に於いて舜鯀の子禹を擧げ、而して鯀の業を續けしむ。
[一]索隠 一に「洪」と作る。鴻は、大なり。鳥の大なるを以て鴻と曰ひ、小なるを鴈と曰ふ、故に近代文字大の義を皆「鴻」に作るなり。
[二]索隠 言ふこころは功狀無きなり。
[三]正義 殛音紀力反。鯀之羽山に、化けて黄熊と為り、羽淵に入る。熊音乃来反、下の三點を三足と云ふなり。東皙の發蒙紀に云ふ「鼈の三足なるを熊と曰ふ。」と
【現代語訳】
かつて帝堯の治世下で、洪水が発生した。その勢いはまさに天まで届かんというもので、山を飲み込み陵を覆い込んだ。その為人民は洪水を恐れ心配した。この時にあたり、堯が治水を任せる人物を求めると、群臣と四嶽は口を揃えて「鯀ならばできるでしょう。」と述べた。これに対して堯は「鯀の性格は命令には背き、一族間に亀裂を入れるものだ。とても治水を任せられる人物ではない。」と断った。だが四嶽は「今天下の人間と鯀を比べますに、鯀より賢い者は居りません。どうか、鯀を試しに用いてみてください。」と食い下がった。ここに来て遂に堯も根負けし、四嶽の言を聞き入れ、鯀を登用し治水を担当させた。ところが、九年経っても治水は上手くいかず、せっかく登用したもののそれに見合う功績が無かった。そこで、堯は再び治水を任せる人物を求め、舜を得た。舜を登用すると堯はこれに、天下の政・巡狩を取り仕切らせた。舜は天下を巡狩し、鯀の治水が全く上手くいっていないのを確認すると、鯀を羽山にて誅殺した。天下の人民は皆、この処置に賛同した。そこで、舜は鯀の代わりに彼の息子である禹を登用し、父親の仕事を引き継がせた。
[一]索隠 異本では「洪」の字となっている。鴻とは「大きい」の意味である。大きい鳥を鴻と言い、小さい鳥を鴈と言う。その為、近代の文字では「大きい」の意味を表現するのに、皆「鴻」の字を用いている。
[二]索隠 言うところは、報告するべき事績が無かったということである。
[三]正義 殛の音は紀の子音と力の母音を合わせた音である。鯀は羽山で誅殺された後、黄熊に化け、羽淵という深い池に赴いた。熊の音は乃の子音と来の母音を合わせた音である。熊の字の下の三点は三足を示している。東皙の「發蒙紀」に「スッポンの三足なものを熊と言う。」とある。