梁啓超『新民説』第九節 自由を論ず
自分の尊敬する梁啓超が自由について論じており、少しく思うところがあったのでここでその概略を紹介したいと思います。*『新民説』が書かれた当時の中国は列強による侵略の危機に晒されており梁としても早急に中国を立て直すことを信条にしており、現在の価値観とは相容れないものも多々あることはご承知おきください。
○歴史的な自由
まず欧米の歴史を通して自由の発達を語ります。梁によると自由をめぐる闘争は以下の四つ
にわけられます。
①政治上の自由:人民が政府に対して求める
(1)平民が貴族に対して
(2)国民が政府に対して
(3)植民地が母国に対して
②宗教上の自由:教徒が教会に対して求める
③民族上の自由:本国が外国に対して求める
④経済上の自由:資本家と労働者が互いに保つ
この結果以下の六つの成果を得ます。
①平民が貴族に対して勝ち取った自由:四民平等
②国民が政府に対して勝ち取った自由:参政権
③植民地が母国に対して勝ち取った自由:属地自治(植民地でも本国同等の権利を獲れる)
④教徒が教会に対して勝ち取った自由:信仰
⑤本国が外国に対して勝ち取った自由:民族の自主性
⑥貧民が金持ちに対して勝ち取った自由:労働問題(労働者の解放)
梁は西洋の改革進歩の歴史を上記の自由獲得の歴史と同一視します。
○自由とは
梁は自由とは「人々の自由とは、他人の自由を侵さないことをもって境界とする」ものであると説きます。彼はここで個人の自由ではなく団体の自由を自由と捉えているのです。先ほど引いた六例も一個人の安全のためではなく、団体の公益のためであり、梁によれば個人の自由=野蛮の自由で、文明の自由=法律の下での自由に他ならないわけです。では個人の自由は認められないのかというと、そうではなく、団体の自由は個人の自由の集積という形で説明されます。すなわち、団体の自由を保てないと個人の自由も保ちえないという理論です。これは当時の情勢をよく反映した考えであると思います。
○心の奴隷について
自由を説く中で梁は自分の精神が自分の奴隷となる状態「心の奴隷」について言及します。
①古人の奴隷:古の聖賢・豪傑を無批判に受容すること。梁は古人が聖賢・豪傑足り得たのは確固たる自分があったからであり、我々もそうであるべきと説きます。すなわち、古人の言動を受けてそれに対して自分で考察することの必要性を説いているのです。
②世俗の奴隷:他人・時代の波に流されて自分を失う状態のこと。新時代を作り出すことはできなくても、自分の心を明晰な状態に保っておくことの必要性を説きます。
③境遇の奴隷:一時の挫折・零落のために非凡な気概を失ってしまうこと。宿命という檻に自ら入り、不遇に屈服し自分の志を達成しようとしないことを嘆いています。
④情欲の奴隷:心が形(からだ)の奴隷となること。人並み以上の才能を持つものは、人並み以上の欲を持つが、それを人並み以上の道徳心をもって統御できなければ、その才能が萎えてしまうことを説きます。『論語』の克己復礼を引用して修養なしてで大事を為し得ないとします。
○まとめ
自分がこの節で感じ入ったのは心の奴隷の段です。それ以前の項目はもとより梁の生きた時代の匂いを濃く反映したものであるので、現代にそのまま適用して考えることことは難しいと思われます。対して心の奴隷の段は、人間の性に訴えかける部分でありますので、時代が変ろうとも変わらず意義を持つものと思えます。特に②以降は結構響く人もいるのではないでしょうか。修養の大切さ、自分の志を持つことの大切さを説いた節であると自分は思いました。