翔べないひよこのブログ

早稲田大学の三年生です。孔子の説く道を志して日々、儒学を学んでいます。専門としては古典中国学と明治漢学者の『論語』解釈になります。

『論語注疏』学而篇「注馬曰子者至説懌〜」②

今回は前回の続きで学而篇第一章の残りの注釈部分である。「子」についての解釈を扱う。

 

<原文>

注馬曰子者至説懌
<訓読>
注の馬曰子者から説懌に至るまで。
<現代語訳>
注の馬曰子者から説懌に至るまで。
 
<原文>
正義曰云子者男子之通稱者経傳凡敵者相謂皆言吾子或直言子稱師亦曰子是子者男子有徳之通稱也
<訓読>
正義に曰く「子は男子の通稱なり」と云ふは、経・傳にて凡そ敵する者は相謂ひて皆「吾子」と言ひ、或いは直だ「子」と言ひ、「師」を稱するも亦「子」と曰へば、是「子」は男子有徳の通稱なり。
<現代語訳>
論語正義』に「「子」は男子の通称である。」と言うのは、経書やその注釈書においておよそ同門の者は皆「吾子」と言い、或いはただ「子」と言い、師を称する者にもまた「子」と言うので、「子」は男子の有徳者の通称となったのである。
*「敵」の解釈は自信無し。
 
<原文>
云謂孔子者嫌為他師故辨之
<訓読>
孔子を謂ふ」と云ふときは、他師為るに嫌はし、故に之を辨ず。
<現代語訳>
孔子を謂ふ」と言う時は他の師と混同している可能性があるので、これを論じるのである。
 
<原文>
公羊傳曰子沈子曰何休云沈子稱子冠氏上者著其為師也
<訓読>
公羊傳に「子沈子曰」と曰ひ、何休は「沈子に「子」と稱し、氏の上に冠するは其の師たるを著すなり。
<現代語訳>
公羊傳に「子沈子曰く」とあり、何休は「沈子が「子」と称し、その氏の上に「子」を冠するは人の師であることを示すためである。
 
<原文>
不但言子曰者辟孔子
<訓読>
但だに「子曰」とのみ言わざるは、孔子を辟すればなり。
<現代語訳>
単に「子曰く」とだけ言わないのは孔子と混同するのを避けるためである。
 
<原文>
其不冠子者他師也
<訓読>
其の「子」を冠せざるは他師なり。
<現代語訳>
その「子」を冠さない者は儒家ではない、他家の師である。」と言っている。
 
<原文>
然則書傳直言子曰者皆指孔子
<訓読>
然らば則ち書傳に直だ「子曰」と言ふものは皆孔子を指す。
<現代語訳>
そうであるならば、文献にただ「子曰く」とのみある人物は全て孔子を指しているのである。
 
<原文>
其聖徳著聞師範来世不須言其氏人盡知之故也
<訓読>
其の聖徳の著聞にして、来世に師範なれば、其の氏を言ふを須ひざるも、人盡く之を知る故なり。
<現代語訳>
その聖徳の広く知れ渡っていること、死後も人々に慕われる人物であるので、その氏をわざわざ言わなくとも、人は皆孔子であることを知る為である。
 
<原文>
若其他傳受師説後人稱其先師之言則以子冠氏上所以明其為師也
<訓読>
其の他の師説を傳受せられ後人其の先師の言を稱するが若きは、則ち「子」を以て氏の上に冠し、其の師為るを明らかにする所以なり。
<現代語訳>
その他の師の説を受け継ぎ、後人がその先師の言を持ち出す時に、「子」を氏の上に冠するのは、その人物が師であることを明らかにする為である。
 
<原文>
子公羊子子沈子之類是也
<訓読>
「子公羊子」・「子沈子」の類は是なり。
<現代語訳>
「子公羊子」「子沈子」の類はこの例である。
 
<原文>
若非己師而稱他有徳者則不以子冠氏上直言某子
<訓読>
己の師に非ずして他の有徳者を稱するが若きは、則ち「子」を以て氏の上に冠するをせず、直だ「某子」とのみ言ふ。
<現代語訳>
自分の師ではない他の有徳者を称するときは、「子」を氏の上に冠することはせず、ただ「某子」とのみ言う。
 
<原文>
若高子孟子之類是
<訓読>
高子・孟子の類の若き是なり。
<現代語訳>
「高子」「孟子」の類いはこの例である。