翔べないひよこのブログ

早稲田大学の三年生です。孔子の説く道を志して日々、儒学を学んでいます。専門としては古典中国学と明治漢学者の『論語』解釈になります。

『論語注疏』学而篇第五章「子曰道千乗之國〜」③

今回も前回の続きです。冒頭部にまた土地に関する話があります。

 

<原文>

又以此方百里者一六分破之毎分得廣十六里長百里
<訓読>
又此の方百里なる者一を以て六分して之を破らば、毎分に廣さ十六里、長さ百里を得る。
<現代語訳>
又、此の方百里一個分を六等分すると、一つにつき広さが十六里、長さが百里となる。
 
<原文>
引而接之則長六百里廣十六里也
<訓読>
引きて之を接せば則ち長さ六百里廣さ十六里なり。
<現代語訳>
これの形を変えて一列に組み換えると長さ六百里、広さは変わらず十六里である。
 
<原文>
半折之各長三百里将埤前三百里南西兩邊是方三百一十六里也
<訓読>
之を半折すれば各長さ三百里、将に前の三百里の南西兩邊を埤さんとすれば、是方三百一十六里なり。
<現代語訳>
これを半分にすると、各々長さは三百里であり、片方の南側の辺と西側の辺を増やすことができれば、三百十六里となる。
 
<原文>
然西南角猶缺方十六里者一也
<訓読>
然れども西南の角は猶缺くこと方十六里なる者一なり。
<現代語訳>
だが、西南の角には方十六里一個分が欠けている。
 
<原文>
方十六里者一也方十六里者一為
<訓読>
方十六里なる者一は、方一里なる者二百五十六と為す。
<現代語訳>
方十六里一個分は方一里が二百五十六個分である。
 
<原文>
然曏割方百里者為六分餘方一里者四百
<訓読>
然れども曏に方百里なる者を割りて六分と為し、餘すこと方一里なる者四百なり。
<現代語訳>
だが、先ほど方百里を六等分したので、餘るところは方一里が四百個分である。
 
<原文>
今以方一里者二百五十六埤西南角猶餘方一里者百四十四
<訓読>
今方一里なる者二百五十六を以て、西南の角を埤さば猶餘すこと方一里なる者百四十四。
<現代語訳>
ここで方一里二百五十六個分を西南の角に足し加えれば、残りは方一里が百四十四個分である。
 
<原文>
又復破而埤三百一十六里兩邊則毎邊不復得半里
<訓読>
又復破りて三百十六里の南西兩邊を埤さば、則ち毎邊は復た半里を得る。
<現代語訳>
又、これを分割して三百十六里の各辺を増やせば、各辺は半里を得ることになる。
 
<原文>
故云三百一十六里有畸也云
<訓読>
故に三百一十六里有畸と云ふなり。
<現代語訳>
故に「三百十六里あまりに広がる」と言うのである。
 
<原文>
云唯公侯之封乃能容之者案周禮大司徒云諸侯之地封疆方五百里諸侯之地封疆方四百里諸伯之地封疆方三百里諸子之地封疆方二百里諸男之地封疆方百里
<訓読>
「唯だ公・侯の封のみ。乃ち能く之を容る。」と云ふは、案ずるに『周禮』大司徒に「諸侯の地は封疆方五百里。諸侯の地は封疆方四百里。諸伯の地は封疆方三百里。諸子の地は封疆方二百里。諸男の地は封疆方百里。」と云ふ。
<現代語訳>
「公・侯の位だけが、この賦役を受け入れられるのである。」と言うのは、『周禮』大司徒に「諸侯の地は封疆方五百里、諸侯の地は封疆方四百里。諸伯の地は封疆方三百里。諸子の地は封疆方二百里。諸男の地は封疆方百里。」とあり、
 
<原文>
此千乗之國居地方三百一十六里有畸
<訓読>
此の千乗の國は「居地の方三百十六里有畸」なり。
<現代語訳>
千乗の国とは「居住地だけでも三百十六里あまりに広がる」であるので、
 
<原文>
伯子男自方三百而下則莫能容之
<訓読>
伯・子・男は方三百より下がれば則ち能く之を容れる莫し。
<現代語訳>
伯・子・男は三百よりも少ないので、これに当てはまることはない。
 
<原文>
故云唯公侯之封乃能容之
<訓読>
故に「唯だ公・侯の封のみ。乃ち能く之を容る。」と云ふ。
<現代語訳>
故に「公・侯の位だけが、この賦役を受け入れられるのである。」と言うのである。
 
<原文>
大國之賦亦不是過焉者坊記云制國不過千乗
<訓読>
「大国の賦と雖も亦是れ焉に過ぎず。」と云ふは、坊記に「國を制するに千乗を過ぎず」と云ふ。
<現代語訳>
「大国の賦役と言ってもこの程度のものなのである。」と言うのは、『禮記』坊記篇に「国を治めるに千乗を超えてはいけない」とある。
 
<原文>
然則地雖廣大以千乗為限
<訓読>
然るに則ち地廣大なりと雖も千乗を以て限りと為す。
<現代語訳>
故に「大国の賦役と言ってもこの程度のものなのである。」と言うのである。
 
<原文>
故云大國之賦亦不是過焉
<訓読>
故に「大国の賦と雖も亦是れ焉に過ぎず。」と云ふ。
<現代語訳>
故に「大国の賦役と言ってもこの程度のものなのである。」と言うのである。
 
<原文>
司馬法兵車一乗甲士三人歩卒七十二人計千乗有七萬五千人則是六軍矣
<訓読>
司馬法にては「兵車一乗に、甲士三人、歩卒七十二人なれば計るに千乗に、七萬五千人有れば、則ち是れ六軍なり。」と。
<現代語訳>
司馬法』には、「兵車一乗に、甲士三人、歩卒七十二人なので千乗になるように計算すると、七萬五千人になり、則ち是れは六軍である。」とある。
 
<原文>
周禮大司馬序官凡制軍萬有二千五百人為軍王六軍大國三軍次國二軍小國一軍
<訓読>
周禮大司馬序官にては、「凡そ軍を制するに、萬二千五百人を軍と為す。王は六軍、大國は三軍、次國は二軍、小國は一軍」とあり、
<現代語訳>
『周禮』大司馬序官には「凡そ軍を制するのに、一万二千五百人を一軍とする。王は六軍、大國は三軍、次國は二軍、小國は一軍である。」とある。
 
<原文>
魯頌悶宮云公車千乗明堂位云封周公於曲阜地方七百里革車千乗及坊記與此文皆與周禮不合者禮天子六軍出自六郷
<訓読>
魯頌・悶宮にては「公車は千乗」と云ひ、明堂位に「周公を曲阜に封じ、地は方七百里、革車千乗」と云ひ、坊記と此の文と皆周禮と合はざるは、禮に「天子の六軍は六郷より出ず」とある。
<現代語訳>
詩経』魯頌・悶宮には「公車は千乗」とあり、『禮記』明堂位篇には「周公を曲阜の地に封じた。其の土地は方七百里であり、革車千乗を動員できた」とある。坊記篇・明堂位篇とみな『周禮』で異なるのは『禮記』に「天子の六軍は六郷より出る。」とあるからである。
 
<原文>
萬二千五百家為郷萬二千五百人為軍
<訓読>
萬二千五百家を郷と為し、萬二千五百人を軍と為す。
<現代語訳>
一万二千五百家を郷と為し、一万二千五百人を軍と為す。
 
<原文>
地官小司徒云凡起徒役無過家一人是家出一人郷為一軍此則出軍之常也
<訓読>
地官小司徒に「凡そ徒役を起こすに家ごとに一人を過ぐることは無し」と云ふは、是家ごとに一人を出だし、郷は一軍と為し、此れ則ち出軍の常なり。
<現代語訳>
『周禮』地官小司徒篇に「民を使役するのに一家から一人以上を動員することはない」とあるのは、家ごとに一人を徴兵し、郷を一軍とするのは軍隊を動員する際の常套である。
 
<原文>
天子六軍既出六郷則諸侯三軍出自三郷
<訓読>
天子の六軍、既に六郷を出づれば、則ち諸侯の三軍は三郷より出づる。
<現代語訳>
天子の六軍が六郷にて出軍すれば、則ち諸侯の三軍は三郷にて出軍する。
 
<原文>
悶宮云公徒三萬者謂郷之所出非千乗之衆也
<訓読>
悶宮に「公徒は三萬」と云ふは郷の出づる所を謂ひ、之の出づる所千乗の衆に非ざるなり。
<現代語訳>
詩経』悶宮に「公徒は三万人」とあるのは、郷を出軍させる所を指し、千乗の兵車のことを指しているのではない。
 
<原文>
千乗者自謂計地出兵非彼三軍之車也
<訓読>
千乗とは自り地を計りて兵を出だすを謂ひ、彼の三軍の車には非ざるなり。
<現代語訳>
千乗とは土地を計測して兵をどれほど徴兵できるかを指し、三軍の車のことではない。
 
<原文>
二者不同故數不相合
<訓読>

二者同じからず、故に數相合はざるなり。

<現代語訳>

両者は同一ではないのである。故に数が合わなかったのである。

 

<補説>

長文になりました。今回はいつもに増して読解に自信がないです…