翔べないひよこのブログ

早稲田大学の三年生です。孔子の説く道を志して日々、儒学を学んでいます。専門としては古典中国学と明治漢学者の『論語』解釈になります。

学而篇序

前回の序文の量が膨大だったので、ひとまず学而篇に入ることにした。今回は学而篇の序全文である。


<原文>

正義曰自此至堯曰是魯論語二十篇之名及第次也

<訓読>

正義に曰く、此れより堯曰に至るまでは是魯論語二十篇の名及び第次なり。

<現代語訳>

邢昺の『論語正義』によると、この篇から堯曰篇に至るまでは魯論語二十篇の名称と順番に従っている。

 

<原文>

當弟子論撰之時以論語為此書之大名学而以下為當篇之小目

<訓読>

弟子の論撰の時に當たり、論語を以て此の書の大名と為し、学而以下を當篇の小目と為す。

<現代語訳>

孔子の弟子がその言行を論撰する時に当たって、「論語」をこの書の名とし、学而以下を各篇の題とした。

 

<原文>

其篇中所戴各記舊聞意及則言不為義例或亦以類相従

<訓読>

其の篇中に戴する所は各々舊聞を記し、意及ばば則ち言ひ、義例を為さず、或いは亦類を以て相ひ従ふ。

<現代語訳>

その篇中に収録したものは各々の嘗て聞いたことを記し、孔子の意に適っていれば載せ、それまで明らかにされていないことについては言及せず、似たような言があればそれに従った。

*ここの訳よくわからず。

 

<原文>

此篇論君子孝悌仁人忠信道國之法主友之規聞政在乎行徳由禮貴於用和無求安飽以好學能自切磋而樂道

<訓読>

此の篇君子・孝悌・仁人・忠信・國を道びくの法・友を主とするの規・政を聞くは徳を行ふに在り・禮に由りて和を用ふるを貴ぶ・安飽を求る無くして以て學を好む・能く自ら切磋して道を楽しむを論ず。

<現代語訳>

此の篇では君子・孝悌・仁人・忠信・国を導く方法・友を選ぶ際の基準・政を聞かれるのはその徳行のおかげであること・禮に従って和を用いるのを重んじること・居に安んじ満足いくまで食事をすることなく、ただ學問を好んだこと・自発的に切磋してそれでいて尚道を楽しんだことを論じている。

 

<原文>

皆人行之大者

<訓読>

皆人の行いの大なる者なり。

<現代語訳>

どれも、人の行いとして立派なものである。

 

<原文>

故為諸篇之先

<訓読>

故に諸篇の先と為す。

<現代語訳>

故に諸篇に先だって置かれた。

 

<原文>

既以學為章首遂以名篇

<訓読>

既に學を以て章首と為せば、遂に以て篇の名とす。

<現代語訳>

既に「學」の字を章の頭に置いていたので、遂に「學」の字を篇の名とした。

 

<原文>

言人必須學也

<訓読>

言ふは人は必ず須く學ぶべきなり。

<現代語訳>

篇名の言うところは、人ならば必ず學問をしなければならない、ということである。

 

<原文>

為政以下諸篇所次先儒不無意焉當篇各言其指此不煩説

<訓読>

為政以下諸篇の次する所、先儒意無くんばあらずも、當篇にて各其の指を言ひ、此れには煩説せず。

<現代語訳>

為政以下に続く諸篇の順番にも、先儒が意図したところがないわけではないが、当篇で各篇の要旨と同じいことは述べているので、それには拘らないことにする。

*ここの訳よくわからず。

 

<原文>

第訓次也

<訓読>

第の訓は次なり。

<現代語訳>

第の訓は次である。

 

<原文>

一數之始也

<訓読>

一は數の始めなり。

<現代語訳>

一は始めの数である。

 

<原文>

言此篇於次當一也

<訓読>

言ふ、此の篇は次に於いて一に當たるなり。

<現代語訳>

言うところはこの篇は『論語』の順序において一番最初である、ということである。

 

<解説>

解説と言うほどのこともないが、「学而」という篇名の由来と先頭に在る故についての話である。吉田賢抗先生や諸橋轍次先生曰く、『論語』の篇名は冒頭の2,3言を取り名とした無造作なものであり、『荀子』のように一篇の内容を総括した命名法とは異なる。簡野道明先生はこの篇は自ら修めて本を務むる意が多く、『論語』二十篇中最も肝要な篇としている。南宋の大儒朱熹も学而篇を熟読すれば為政以下の篇は自然と覚りやすくなるだろうと述べている。

 

『論語注疏』序①

 お久しぶりです。夏休みに入ったこともあり、自分の漢文力向上の為に十三経注疏の『論語注疏』の訳をしてみることにしました。気持ちは高らかに始めたのですが、だいぶ難しくて辛かったです💦(特に官職とか厳しいですね。また別に勉強しないとなと思いました)

底本は中華書局本で、参考書として汲古書院の『全譯論語集解』を用いています。中々漢文を白文で読む機会が無く、これが初めての試みなので、色々とおかしな箇所もあるかと思いますが、何かご指摘がありましたら、是非お教えください。今後の参考にさせて頂きます。

*夏休み中になんとか学而篇は読み切りたいなぁと思ってます…

 

《原文》

叙曰漢中壘校尉劉向言魯論語二十篇皆孔子弟子記諸善言也大子大傳夏侯勝前将軍蕭望之丞相韋賢及子玄成等傳之

 叙曰至傳之○正義曰此叙魯論之作及傳授之人也叙與序音義同曰者發語辭也案漢書百官公卿表云中壘校尉掌北軍壘門内外掌西域顔師古曰掌北軍壘門之内而又外掌西域劉向高祖小弟楚元王之後辟彊之孫徳之子字子政本名更生成帝即位更名向數上疏言得失以向為中壘校尉向為人簡易専精思於経術成帝詔校経傳諸子詩賦毎一書已尚輒條其篇目撮其指意録而奏之著別録新序此言魯論語二十篇皆孔子弟子記諸善言也蓋出於彼故何晏引之對文則直言曰言答述曰語散則言語可通故此論夫子之語而謂之善言也表又云太子太傳古官秩二千石傳云夏侯勝字長公東平人少好學為學精熟善説禮服徴為博士宣帝立太后省政勝以尚書太后遷長信小府坐議廟楽事下獄繋再更冬會赦出為諫大夫上知勝素直復為長信小府遷太子太傳受詔撰尚書論語説賜黄金百斤年九十卒官賜冢塋葬平陵太后賜銭三百萬為勝素服五日以報師傳之恩儒者以為榮始勝毎講授常謂諸生曰士病不明経術経術苟明其取青紫如俛拾地芥耳學経不明不如親耕表又云前後左右将軍皆周末官秦因之位上卿金印紫綬漢不常置或有前後或有左右皆掌兵及四夷傳云蕭望之字長倩東海蘭陵人也好學齊詩事同縣后倉又従夏侯勝問論語禮服以射策甲科為郎塁遷諫大夫後代丙吉為御史大夫左遷為太子太傳及宣帝寝疾遷大臣可屬者引至禁中拝望之為前将軍元帝即位為弘恭石顯等所害飲鴆自殺天子聞之驚拊手為之卻食涕泣哀慟左右長子伋嗣關内公表又云相国丞相皆秦官金印紫綬掌丞天子助理萬機應劭曰丞承也相助也秦有左右高帝即位置一丞相十一年更名相国綠綬孝恵高后置左右丞相文帝二年一丞相哀帝元夀二年更名大司徒傳曰韋賢字長孺魯国鄒人也賢為人質朴少欲篤志於學兼通禮尚書以詩教授號稱鄒魯大儒徴為博士給事中進授昭帝詩稍遷光祿大夫及宣帝即位以先帝師甚見尊重本始三年代蔡義為丞相封扶陽侯年七〇餘為相五歳地節三年以老病乞骸骨賜黄金百斤罷歸加賜第一區丞相致仕自賢始年八十二薨諡曰節侯少子玄成字少翁復以明経歴位至丞相鄒魯諺曰遺子黄金満籝不如一経玄成為相七年建昭三年薨諡曰共侯此四人皆傳魯論語

 

《訓読》

叙して曰く、「漢中壘校尉の劉向言ふ、「魯論語二十篇、皆孔子の弟子、諸善言を記すものなり。」と。大子大傳の夏侯勝、前将軍の蕭望之、丞相の韋賢及び子の玄成等之を傳へる。

 叙して之を傳ふるに至るを曰ふ。○正義に曰く此れ叙するは魯論の作及び傳授の人なり。敘と序の音義は同じにして曰ふ者は發語の辭なり。案ずるに漢書百官公卿表に云ふ、中壘校尉は北軍の壘門の内を掌り、外は西域を掌る。顔師古曰く、「北軍の壘門の内を掌り、而して又外は西域を掌る。」と。劉向は高祖の小弟楚元王の後たる辟彊の孫にして徳の子なり。字は子政、本名は更生なり。成帝即位するや名を更め向とす。數上疏して得失を言ひ、以て向中壘校尉と為る。人の為に易を簡にし、専ら経術に精思す。成帝詔して経傳と諸子の詩賦を一書毎に校べしむるに、尚輒ち條して其の篇目を撮り其の指意を録し、而して之を奏じて『別録』を新たに著す。序に此れ言ふ、「魯論語二十篇、皆孔子の弟子、諸善言を記すものなり。」と。蓋し彼に出づるは、何晏之を引き對文として則ち直言して曰く、「答述は語を曰ひ散ずれば則ち言語通ず可し。故に此の論は夫子の語にして之を善言と謂ふなり。」と言ふ故なり。表又云ふ太子太傳は古の官秩にて二千石なり。傳に云ふ夏侯勝字は長公、東平の人なり。少くして學を好み、學を為すこと精熟にして善を説き禮に服す。徴されて博士と為る。宣帝立つも太后省政するに勝尚書を以て太后に授く。長信小府に遷せられ坐して廟楽の事を議す。下獄して繋がるも再び更めて冬に會赦せられ出づ。諫大夫と為る。上勝の素直なるを知りて、復た長信小府に為す。太子太傳に遷る。詔を受け、尚書論語の説を撰し、黄金百斤を賜る。年九十にして卒官す。冢塋を賜りて平陵に葬らる。太后銭三百萬を賜ひ、勝の為に素服にして五日なるを以て師の傳ふる恩に報ゆ。儒者以て榮と為す。勝講授す毎に常に諸生に謂ひて曰く、「士は経術に明らかならざるを病め。経術に苟も明らかなれば、其の青紫を取ること俛して地の芥を拾うが如し。経を學びて明らかならざるは、耕に親しむに如かじ。」と。表又云ふに前後左右将軍皆周末の官なり。秦に因りて之上卿に位す。金印紫綬は漢常に置かずして、或は前後に有り、或は左右に有る。皆兵及び四夷を掌る。傳に云ふ、蕭望之字は長倩。東海蘭陵の人なり。齊国の詩を學ぶことを好み、同縣出身の后倉に事え、夏侯勝に従ひて論語・禮服を問ふ。射策甲科を以て郎と為りて塁ねらる。諫大夫に遷る。後代丙吉の為に御史大夫を左遷せられ、太子太傳と為る。宣帝寝疾すに及び、大臣に遷り屬む可く者として禁中に引き至て拝す。望之前将軍と為る。元帝即位するや、弘恭・石顯等の害せらる所の為に、鴆を飲みて自殺す。天子之を聞くに驚きて手を拊して、之が為に食を卻け涕泣哀慟し、左右の長子をして伋ぎ關内公を嗣がせしむ。表に又云ふ、相国・丞相は皆秦官なり。金印紫綬を掌るは丞にして、天子の萬機を助理す。應劭曰く、「丞は承なり。相は助なり。」秦に左右高帝有り、即位して一丞相を置く。十一年名を相国と更める。綠綬たる孝恵高后は左右丞相を置く。文帝二年一丞相なり。哀帝の元夀二年、名を大司徒に更む。傳に曰く、韋賢字は長孺。魯国の鄒人なり。賢にして為人は質朴・少欲・學に篤志なり。禮・尚書に兼ね通じ、詩を以て教授す。號して鄒魯大儒と稱す。徴されて博士と為り給事中に進む。昭帝に詩を授け稍して光祿大夫に遷る。宣帝の即位するに及び、先帝の師たるを以て甚だ尊重せらる。本始三年蔡義に代はりて丞相と為り、扶陽侯に封ぜらる。年七十餘りにして相と為ること五歳、地節三年老病を以て骸骨を乞う。黄金百斤を賜り、罷歸るに第一區を加賜せらる。丞相を致仕すは賢より始まる。年八十二にして薨ず。諡を節侯と曰ふ。少子の玄成、字は少翁。復た経に明るきを以て位を歴し丞相に至る。鄒魯の諺に曰く、子に黄金を満籝遺すは一経に如かず。と。玄成相と為ること七年、建昭三年に薨じ、諡を共侯と曰ふ。此の四人皆魯論語を傳ふ。

 

《現代語訳》

叙して言う、「漢の中壘校尉である劉向が、「魯論語は二十篇あり、全て孔子の弟子が、諸々の孔子の善言を記したものである。」と述べている。大子大傳の夏侯勝、前将軍の蕭望之、丞相の韋賢及びその子である韋玄成らがこれを伝えている。

 叙すことでこの書が伝わった経緯を述べている。○この叙が言及するのは魯論語及びそれを伝承した人物のことである。叙と序の音義は同じであり、この言葉に言及する者は言い出しの文字であるとする。漢書百官公卿表に中壘校尉は北軍の壘門の内部を掌り、外に於いては西域を掌るとある。顔師古が言うには「北軍は壘門の内側を掌り、外側は西域を掌る。」である。劉向は高祖劉邦の末弟である楚元王の子孫である劉辟彊の孫であり、劉徳の子である。字は子政、本来の名は更生である。成帝が即位すると名を改めて向とした。屢々上疏して政治の得失を訴え、中壘校尉となった。学びやすいように易を簡潔に整え、経学に思索を凝らした。成帝が経傳と諸子の詩賦を一書ごとに校べるように詔を出すに及んで、劉向は一文一文整理して其の篇目を設定し、其の意味するところを記録し、この成果を上奏して『別録』という書物を新たに著した。序にて「魯論語は二十篇あり、全て孔子の弟子が、諸々の善言を記したものである。」と述べた。恐らく序にこの文があるのは、何晏がこの文を引いて答文として諫言した時に「問答の記録は論語のことを言い、論語が天下に行き渡れば言語が互いに通じることが可能であります。故にこの論は孔子の話であり、之は善言なのです。」と述べているからである。漢書百官公卿表には亦、太子太傳は古代の官でありその秩は二千石である。傳によると夏侯勝、字は長公であり東平の出身である。若くして学問を好み、学問を実践すること熟練の域にあり、善を説き礼に服していた。召されて博士となる。宣帝が即位するも未だ太后が省政を行っている時に、勝は『尚書』を太后に授けた。長信小府に移ると廟楽についてを講授した。諫言が祟って獄に繋がれるも、冬に大赦があり出獄した。諫大夫となった後、帝、勝の性が素直であることを知って、再び長信小府に移された。太子太傳に移ると詔を受けて、『尚書』・『論語』の説を撰し、その功績を以て黄金百斤を賜った。九十歳の時に官職に就いたまま死亡した。墓地を賜って平陵に葬られた。太后は更に銭三百萬を与え勝の為に質素な服を着て五日過ごし、自分に學問を教授したことへの恩に報いた。儒者はこのことを栄誉なこととした。勝は講義を行う度に諸生に「士たる者は経学に明らかでないことを憂ふべきだ。経学にもし明らかであるならば公卿となることも俯いて地面の埃を取るように安易なことだ。経学を勉強して明らかでないならば、郷里で農耕に従事していた方がマシだ。」と言っていた。漢書百官公卿表によると亦前後左右将軍は皆周末の官職である。秦の時代になって上卿の位になった。漢代に於いては金印紫綬は常に同じ官職に置かれることはなく、ある時は前後将軍に、ある時は左右将軍に置かれていた。皆軍隊と四方の夷狄を統括していた。傳によると蕭望之、字は長倩。東海蘭陵の出身である。齊国の詩を学ぶことを好み、同県出身の后蒼に仕える一方で夏侯勝に従って論語と礼服のことを尋ねた。射策甲科に合格し郎となって連ねられた。諫大夫に移った。後に丙吉のために御史大夫を左遷させられて、太子太傳となった。宣帝が病床に伏せると、大臣に移り集を纏めるべき者として禁中に呼ばれこれに拝命した。望之前将軍となる。元帝が即位すると、弘恭・石顯たちからの迫害を受けると毒酒を仰いで自殺した。天子はこれを聞くと驚いて手を叩き、望之の死のために食事を退け、嘆き悲しんだ。左右の長子に急いで關内公を嗣がせた。漢書百官公卿表によると、相国・丞相は皆秦の官職である。金印紫綬を掌るを丞と言い、天子の政務を補佐する。應劭が言うには「丞は承である。相は助である。」と。秦に左右高帝が在ったが、即位してから丞相を一人置いた。即位して十一年目に名を相国と改めた。綠綬である孝恵高后は左右の丞相を置いた。文帝の二年目に丞相は一人となった。哀帝の元夀二年に名を大司徒に改めた。傳によると韋賢、字は長孺。魯国の鄒人である。賢才であったがその性状は質朴・少欲であり学問への志が篤かった。『礼』と『尚書』に通じており、詩を教授していた。號して鄒魯大儒と稱した。徴されて博士となり給事中に昇進した。昭帝に詩を授け、その後稍して光祿大夫に移る。宣帝が即位すると、先帝の師であったことを以て非常に尊重された。本始三年、蔡義に代はって丞相となり、扶陽侯に封じられる。年七十過ぎで相となり五年、地節三年に老病を理由に引退を請うた。黄金百斤を賜り、官職を退き郷里に帰ると更に第一品を追加で賜った。丞相を引退することは韋賢から始まった。八十二歳で亡くなった。諡を節侯と言う。末子の玄成、字は少翁。父と同じく経学に明らかであったので官職を歴任し、丞相に就任した。鄒魯の諺には「子供に遺すならば籝一杯の黄金をよりも一経が良い。」というものがある。玄成相となること七年、建昭三年に亡くなり、諡を共侯と言った。此の四人は皆魯論語を伝承した。

 

 

だいぶ長くなりましたが、①はこれで終わりです。ここまで目を通して下さった方ありがとうございます。②は来週辺りにUPすると思います。冒頭にも書いたんですけど、経書の白文って難易度凄く高いですね。史記の五帝本紀を読んだ時は、句読点が振ってあったこともあってか、ここまで難しくはなかった印象なんですけど。なんとか漢文を綺麗に読めるように努力していきたいです。(来年は院試もありますし…)

梁啓超『新民説』第九節 自由を論ず

自分の尊敬する梁啓超が自由について論じており、少しく思うところがあったのでここでその概略を紹介したいと思います。*『新民説』が書かれた当時の中国は列強による侵略の危機に晒されており梁としても早急に中国を立て直すことを信条にしており、現在の価値観とは相容れないものも多々あることはご承知おきください。

 

○歴史的な自由

 まず欧米の歴史を通して自由の発達を語ります。梁によると自由をめぐる闘争は以下の四つ

にわけられます。

①政治上の自由:人民が政府に対して求める

       (1)平民が貴族に対して

       (2)国民が政府に対して

       (3)植民地が母国に対して

②宗教上の自由:教徒が教会に対して求める

③民族上の自由:本国が外国に対して求める

④経済上の自由:資本家と労働者が互いに保つ

この結果以下の六つの成果を得ます。

①平民が貴族に対して勝ち取った自由:四民平等

②国民が政府に対して勝ち取った自由:参政権

③植民地が母国に対して勝ち取った自由:属地自治(植民地でも本国同等の権利を獲れる)

④教徒が教会に対して勝ち取った自由:信仰

⑤本国が外国に対して勝ち取った自由:民族の自主性

⑥貧民が金持ちに対して勝ち取った自由:労働問題(労働者の解放)

梁は西洋の改革進歩の歴史を上記の自由獲得の歴史と同一視します。

 

○自由とは

 梁は自由とは「人々の自由とは、他人の自由を侵さないことをもって境界とする」ものであると説きます。彼はここで個人の自由ではなく団体の自由を自由と捉えているのです。先ほど引いた六例も一個人の安全のためではなく、団体の公益のためであり、梁によれば個人の自由=野蛮の自由で、文明の自由=法律の下での自由に他ならないわけです。では個人の自由は認められないのかというと、そうではなく、団体の自由は個人の自由の集積という形で説明されます。すなわち、団体の自由を保てないと個人の自由も保ちえないという理論です。これは当時の情勢をよく反映した考えであると思います。

 

○心の奴隷について

 自由を説く中で梁は自分の精神が自分の奴隷となる状態「心の奴隷」について言及します。

 

①古人の奴隷:古の聖賢・豪傑を無批判に受容すること。梁は古人が聖賢・豪傑足り得たのは確固たる自分があったからであり、我々もそうであるべきと説きます。すなわち、古人の言動を受けてそれに対して自分で考察することの必要性を説いているのです。

②世俗の奴隷:他人・時代の波に流されて自分を失う状態のこと。新時代を作り出すことはできなくても、自分の心を明晰な状態に保っておくことの必要性を説きます。

③境遇の奴隷:一時の挫折・零落のために非凡な気概を失ってしまうこと。宿命という檻に自ら入り、不遇に屈服し自分の志を達成しようとしないことを嘆いています。

④情欲の奴隷:心が形(からだ)の奴隷となること。人並み以上の才能を持つものは、人並み以上の欲を持つが、それを人並み以上の道徳心をもって統御できなければ、その才能が萎えてしまうことを説きます。『論語』の克己復礼を引用して修養なしてで大事を為し得ないとします。

 

○まとめ

 自分がこの節で感じ入ったのは心の奴隷の段です。それ以前の項目はもとより梁の生きた時代の匂いを濃く反映したものであるので、現代にそのまま適用して考えることことは難しいと思われます。対して心の奴隷の段は、人間の性に訴えかける部分でありますので、時代が変ろうとも変わらず意義を持つものと思えます。特に②以降は結構響く人もいるのではないでしょうか。修養の大切さ、自分の志を持つことの大切さを説いた節であると自分は思いました。