翔べないひよこのブログ

早稲田大学の三年生です。孔子の説く道を志して日々、儒学を学んでいます。専門としては古典中国学と明治漢学者の『論語』解釈になります。

『春秋公羊傳何休解詁』隠公③

経文「元年春王正月」のつづき

 

原文

傳 

桓幼而貴隠長而卑
長者已冠也禮年二十見正而冠士冠禮曰嫡子冠於阼以著代也醮於客位加有成也三加彌尊諭其志也冠而字之敬其名也公侯之有冠禮夏之末造也天子之元子猶士也天下無生而貴者
 
訓読
傳 
桓 幼にして貴く、隠 長にして卑し。
長者 已に冠するなり。禮に年二十正しきを見はして冠する。士冠禮に曰く、「嫡子の阼に冠するを以て代なるを著はすなり。客位に醮するは加えて有成せしむるなり。三たび加へて彌々尊くするは、其の志を諭せばなり。冠して字するは之其の名を敬すればなり。公侯の冠禮有るは、夏の末に造まればなり。天子の元子も猶ほ士なり。天下生にして貴者無し」と。
 
現代語訳
桓公は幼年だが、血筋は良く、隠公は年長だが、血筋は良くなかった。

「長」とは冠禮を終わらせていることである。禮では、二十歳で正統であることを示して冠を着けるとされている。士冠禮によると、「嫡子が堂の東側の階段で冠を着けることで、父に代わることを示すのだ。客席で醮の禮を行うのは、大人として成人したことを示すのである。三度冠を着けて、いよいよその格を尊くするのは、その志を諭すためである。冠を着ける時に字を付けるのは、名を敬えばである。公侯に冠禮があるのは、夏の末期に成立したからである。天子の子といえども、士である。天下には生まれながらにして、貴い者はいないのである」とある。

*何休が、「天子之元子猶士也」と言うのは、士大夫の人倫道徳を重んじる公羊学の特徴とも考えられる。

 

 

原文 

其為尊卑也微
母倶媵也
 
訓読 
其の尊卑と為るや微。
母倶に媵なり。
 
現代語訳
両者の血筋としての尊卑は僅かなものであった。
母親は倶に、嫁入りに付き従う侍女であった。
 
 
原文
國人莫知

國人謂國中凡人莫知者言恵公不早分別也男子年六十閉房無丗子則命貴公子將薨亦如之

 

訓読 

國人知る莫し。

國人は國中の凡人を謂ふ。知る莫しとは恵公 早くに分を別たざるなり。男子年六十にして房を閉じる。丗にして子無ければ則ち貴公子に命ずる。將に薨するも亦之の如し。

 

現代語訳

国の人間でそのことを知っている者はいなかった。

国人とは国中の一般人を指している。知る者がいないとは、恵公が生前に物事の区別を定めていなかったことを指している。男子は六十歳で閨室を閉じる。その時までに世継ぎが居なければ貴公子に命じて養子を貰い受ける。六十歳以前、つまり閨室を閉じる前に死を迎えようとした場合も同様にする。

「丗」は世の正字であるので、訳文のような解釈が一般的であるようだが、もう一つの意味である「三十」で取ると、「三十歳で子が居なければ(政を担えるまで育てるには時間を要するので)貴公子に命じて(まだ幼い)子を養子として迎え入れる。」という解釈になるかと思う。これでも良いように思う。

 

原文

隠長又賢

此以上皆道立隠所縁

 

訓読

傳 
隠 長にして又賢。
此れ以上皆、隠を立つる所縁を道ふ。
 
現代語訳
傳 
隠公は年長であると同時に賢明でもあった。
ここまでみな、隠公を立てるに至った由来を述べたものである。
*公羊傳は「賢」という評価を最も重んじていることから、隠公が最大級の評価を受けていることがわかる。
 
 
原文
諸大夫扳隠而立之
扳引也諸大夫立隠不起者在春秋前明王者受命不追治前事孔子曰不教而殺謂之虐不戒見成謂之暴
 
訓読
諸大夫 隠を扳きて之を立つる。
扳は引なり。諸大夫 隠を立つるも、起てざるは春秋の前に在り、王者受命せば追ひて前事を治めざるを明らかにすればなり。孔子曰く、「教えずして殺すを之『虐』と謂ひ、戒めずして成せらるを之『暴』と謂ふ」と。
 
現代語訳

諸大夫は隠公を推してこれを立てた。

注 
「扳」は「引」である。諸大夫が隠公を即位させたことを書かないのは『春秋』以前の話だからである。王者が受命したならば、それ以前のことは遡って追求しないことを明らかにしているのである。孔子の言葉に「教えもしないで(罪を犯すと)殺すことを『虐』といい、戒めもしないで成果を求めることを『暴』という」とある。
*「見成」は岩本憲司氏の解釈に依りましたが、どう読むのかよく分かりません。
 
 
原文
隠於是焉而辭立
辭譲也言隠欲譲
 
訓読
是に於いて隠 辭して立つ。
辭は譲なり。言ふこころは隠 譲を欲す。
 
現代語訳

ここにおいて、隠公は譲る姿勢を見せたが、最後は即位した。

「辭」は「譲」である。隠公は、位を(弟に)譲りたかったのである。

 

 

原文

則未知桓之將必得立也
是時公子非一
 
訓読
則ち未だ桓の將に必ず立つを得るか知らざるなり。
是の時公子一に非ず。
 
現代語訳
(隠公が即位を譲った場合)桓公が必ず即位できるかはわからなかった。

この時、公子は隠公と桓公だけではなかったのである。

 

 

原文

且如桓立
且如假設之辭
 
訓読

且つ如し桓立てば、

且如は假設の辭なり。

 

現代語訳

また、もし桓公が即位したならば、
「且如」は仮定の辞である。
 
 
原文
則恐諸大夫之不能相幼君也
隠見諸大夫背正而立己不正恐其不能相之
 
訓読
則ち諸大夫の幼君を相ける能はざるを恐れるなり。

隠 諸大夫の正に背きて己を立つるの不正を見、而してその之を相ける能はざるを恐るる。

 

現代語訳

諸大夫が幼い君主を助けることが無いかもしれないことを恐れたのである。

隠公は、諸大夫が正(桓公)に背いて、自分を即位させようとする不正の光景を目の当たりにして、諸大夫が桓公を補佐することができないのではないかと恐れたのである。

 

 

原文

故凡隠之立為桓立也
凡者凡上所慮二事皆不可故於是已立欲須桓長大而歸之故曰為桓立明其本無受國之心故不書即位所以起其譲也
 
訓読
故に凡そ隠の立つは桓立つの為なればなり。
凡とは凡そ上に慮る所の二事皆不可なり。故に是に於いて、己立ちて須く桓長大なれば之に歸すべきを欲す。故に「桓の為に立つ」と曰ひ、其の本に受國の心無かることを明らかにす。故に即位を書かざるは、其の譲を起こす所以なり。
 
現代語訳

だから、隠公が即位したのは、いずれ桓公が即位する時の為である。

「凡」とは、上述した二つの事が不可能だということである。故に、(隠公は)自分が即位して、桓公が成長した暁には、彼に位を返すつもりなのであった。故に、「桓公の為に即位した」といい、国を継承する野心があったわけではないことを明らかにしているのである。故に、「即位」を書かないのは、(隠公の)譲の心を表すためである。

 

 

原文

又賢何以宜不立

据賢繆公與大夫貜且長以得立

 

訓読

又賢なるに何を以て宜しく立たざるか
繆公を賢として大夫を與し、貜且 長を以て立つを得るに据ればなり。
 
現代語訳
(隠公は)賢であるのに、どうして即位できないのか。
繆公は賢であることを以て大夫があることを許し、貜且は年長であることを以て即位することができるとされているから。
貜且とは邾の定公のことである。