『春秋公羊傳何休解詁』隠公③
経文「元年春王正月」のつづき
原文
傳
「長」とは冠禮を終わらせていることである。禮では、二十歳で正統であることを示して冠を着けるとされている。士冠禮によると、「嫡子が堂の東側の階段で冠を着けることで、父に代わることを示すのだ。客席で醮の禮を行うのは、大人として成人したことを示すのである。三度冠を着けて、いよいよその格を尊くするのは、その志を諭すためである。冠を着ける時に字を付けるのは、名を敬えばである。公侯に冠禮があるのは、夏の末期に成立したからである。天子の子といえども、士である。天下には生まれながらにして、貴い者はいないのである」とある。
*何休が、「天子之元子猶士也」と言うのは、士大夫の人倫道徳を重んじる公羊学の特徴とも考えられる。
原文
傳
國人謂國中凡人莫知者言恵公不早分別也男子年六十閉房無丗子則命貴公子將薨亦如之
訓読
傳
國人は國中の凡人を謂ふ。知る莫しとは恵公 早くに分を別たざるなり。男子年六十にして房を閉じる。丗にして子無ければ則ち貴公子に命ずる。將に薨するも亦之の如し。
現代語訳
傳
国人とは国中の一般人を指している。知る者がいないとは、恵公が生前に物事の区別を定めていなかったことを指している。男子は六十歳で閨室を閉じる。その時までに世継ぎが居なければ貴公子に命じて養子を貰い受ける。六十歳以前、つまり閨室を閉じる前に死を迎えようとした場合も同様にする。
*「丗」は世の正字であるので、訳文のような解釈が一般的であるようだが、もう一つの意味である「三十」で取ると、「三十歳で子が居なければ(政を担えるまで育てるには時間を要するので)貴公子に命じて(まだ幼い)子を養子として迎え入れる。」という解釈になるかと思う。これでも良いように思う。
原文
傳
此以上皆道立隠所縁
訓読
諸大夫は隠公を推してこれを立てた。
注ここにおいて、隠公は譲る姿勢を見せたが、最後は即位した。
注
「辭」は「譲」である。隠公は、位を(弟に)譲りたかったのである。
原文
傳
この時、公子は隠公と桓公だけではなかったのである。
原文
傳
且つ如し桓立てば、
注
且如は假設の辭なり。
現代語訳
傳
隠 諸大夫の正に背きて己を立つるの不正を見、而してその之を相ける能はざるを恐るる。
現代語訳
傳
隠公は、諸大夫が正(桓公)に背いて、自分を即位させようとする不正の光景を目の当たりにして、諸大夫が桓公を補佐することができないのではないかと恐れたのである。
原文
傳
だから、隠公が即位したのは、いずれ桓公が即位する時の為である。
注
「凡」とは、上述した二つの事が不可能だということである。故に、(隠公は)自分が即位して、桓公が成長した暁には、彼に位を返すつもりなのであった。故に、「桓公の為に即位した」といい、国を継承する野心があったわけではないことを明らかにしているのである。故に、「即位」を書かないのは、(隠公の)譲の心を表すためである。
原文
傳
据賢繆公與大夫貜且長以得立
訓読
傳