翔べないひよこのブログ

早稲田大学の三年生です。孔子の説く道を志して日々、儒学を学んでいます。専門としては古典中国学と明治漢学者の『論語』解釈になります。

『史記』夏本紀第二 (1)

再び『史記』を読んでいくことにしました。「五帝本紀」は以前に読んだので、「夏本紀」からになります。見ての通り[]内が注釈になります。アンダーライン引いている箇所は訓読・訳に不安がある箇所です。

*三家注(集解・正義・索隠)の訳が無いってすごい不便ですね…

【原文】

 夏禹[一]、名曰文命。[二]禹之父曰鯀、鯀之父曰帝顓頊、[三]顓頊之父曰昌意、昌意之父曰黄帝。禹者、黄帝之玄孫而帝顓頊之孫也。禹之曽大父昌意及父鯀皆不得在帝位、為人臣。

[一]集解 諡法曰「受禅成功曰禹。」正義 夏者、帝禹封國號也。帝王紀云「禹受封為夏伯、在豫州外方之南、今河南陽翟是也。」

[二]索隠 尚書云「文命敷于四海」、孔安國云「外布文徳教命」、不云是禹名。太史公皆以放勳、重華、文命為堯、舜、禹之名、未必為得。孔又云「虞氏、舜名」、則堯、舜、湯皆名矣。蓋古者帝王之號皆以名、後代因其行、追而為諡。其實禹是名。故張晏云「少昊已前、天下之號象其徳、顓頊已来、天下之號因其名」。又按系本「鯀取有辛氏女、謂之女志、是生高密」。宋衷云「高密、禹所封國」。

 正義 帝王紀云「父鯀妻脩己、見流星貫昴、夢接意感、又呑神珠薏苡、胸坼而生禹。名文命、字密、身九尺二寸長、本西夷人也。大戴禮云『高陽之孫、鯀之子、曰文命』。揚雄蜀王本紀云『禹本汶山郡廣柔縣人也、生於石鈕』。」括地志云「茂州汶川縣石鈕山在縣西七十三里。華陽國志云『今夷人共營其地、方百里不敢居牧、至今猶不敢放六畜』。」按廣柔、隋改曰汶川。

[三]索隠 皇甫謐云「鯀、帝顓頊之子、字煕。」又連山易云「鯀封於崇」、故國語謂之「崇伯鯀」。系本亦以鯀為顓頊子。漢書律暦志則云「顓頊五代而生鯀」。按鯀既仕堯、與舜代系殊懸、舜即顓頊六代孫、則鯀非是顓頊之子。蓋班氏之言近得其實。

[訓読】 

夏の禹、名を曰く文命と。禹の父曰く鯀、鯀の父曰く帝顓頊、顓頊の父曰く昌意、昌意の父曰く黄帝なり。禹は、黄帝の玄孫にして帝顓頊の孫なり。禹の曽大父の昌意及び父の鯀皆帝位に在るを得ず、人臣たり。

[一]集解 諡法に曰く「受禅の成功を禹と曰ふ。」と。正義 夏は、帝禹の封ぜられし國の號なり。帝王紀に云ふ「禹封を受け夏伯と為る、豫州外方の南に在り、今の河南陽翟是なり。」と。

[二]索隠 尚書に云ふ「文命四海に敷く」と、孔安國云ふ「外に文徳教命を布く」と、是禹の名を云はず。太史公放勳、重華、文命を以て皆堯、舜、禹の名とす、未だ必ずしも得るを為さず。孔又云ふ「虞氏、舜を名とす」と、則ち堯、舜、湯皆名なり。蓋し古の帝王の號は皆名を以てし、後代は其の行いに因りて、送りて諡と為す。其の實禹は是名なり。故に張晏云ふ「少昊已前、天下の號は其の徳を象る、顓頊已来、天下の號は其の名に因む。」又按ずるに系本に「鯀有辛氏の女を取る、之の女を志と謂ひ、是高密を生む」と。宋衷云ふ「高密は、禹の封國せらるる所なり」と。

 正義 帝王紀云ふ「父鯀の妻脩己、流星の昴を貫くを見、夢に接して意に感じ、又神珠たる薏苡を呑むに、胸坼して禹生るる。名は文命、字は密、身九尺二寸長、本西の夷人なり。大戴禮に云ふ『高陽の孫、鯀の子は、文命と曰ふ。』と。揚雄の蜀王本紀に云ふ『禹は本汶山郡廣柔縣の人なり。』と。」と。括地志云ふ「茂州汶川縣に石鈕山、縣の西七十三里に在り。華陽國志に云ふ『今夷人共に其の地に營むも、方百里に敢えて居牧せず、今に至るも猶ほ敢えて六畜を放さず。』と」と。按ずるに廣柔は、隋に改められ汶川と曰ふ。

[三]索隠 皇甫謐云ふ「鯀は、帝顓頊の子にして、字は煕なり。」と。又連山易に云ふ「鯀は崇に封ぜらる。」と、故に國語之を謂ひて「崇伯鯀」と。系本亦鯀を以て顓頊の子と為す。漢書律暦志に則ち云ふ「顓頊より五代にして鯀生るる。」と。按ずるに鯀既に堯と舜に仕ふるも、代系殊に懸なる、舜即ち顓頊の六代孫なり、則ち鯀は是顓頊の子に非ず。蓋し班氏の言其の實を得ること近し。

 

【現代語訳】

夏の禹は名を文命といった。禹の父は鯀、鯀の父は帝顓頊、帝顓頊の父は昌意、昌意の父は黄帝であった。禹は黄帝の玄孫にして帝顓頊の孫である。禹の曽祖父である昌意と父の鯀は帝位に就くことが叶わず人臣であった。

[一]集解 諡法によると「先代から帝位を譲り受けることが出来たことを禹と言う。」である。正義 夏は帝禹の封建された國の名である。『帝王紀』によると「禹は國に封じられて夏伯となった。その國は豫州の外側に位置していて、今の河南陽翟がそうである。」と。

[二]索隠 『尚書』に「文命は天下を広く治めた」とある。孔安國が言うには「天下に文徳と先君の教訓を広く行き届かせたのである。」と。どちらも禹の名を言ってはいない。太史公は放勳、重華、文命を以て堯、舜、禹の名としているが、未だ確たる根拠は無い。孔安國がまた言うには「虞氏の名が舜である」と。つまり堯、舜、湯はどれも名なのである。恐らく古の帝王の號は名を以てしていたのだが、時代が下るにつれて行いに因んで諡としたのであろう。そうなると禹は名である。故に張晏が言うには「少昊より以前は、天下の號はその徳に因んでいたが、顓頊以降は名に因むようになったのである。」と。又私が考えるに、系本に「鯀は有辛氏の娘を娶った。この娘の名を志と謂い、この娘が高密を生んだ。」とある。宋衷が言うには「高密は禹が封國された所である。」と。

 正義 『帝王紀』によると「父である鯀の妻の脩己は、流星が昴を貫くのを見、又神珠と呼ばれる薏苡を服用した所胸が裂けて禹が生まれた。名は文命、字は密、身長は九尺二寸であった。元々は西方の夷人である。『大戴禮』には『高陽の孫にして、鯀の子は、文命という』とある。揚雄の『蜀王本紀』によると『禹は元々汶山郡廣柔縣の人』である。」である。『括地志』には「茂州汶川縣にある石鈕山は縣の西方七十三里の距離に位置する。」と書かれている。『華陽國志』によると「今夷人の人たちと共同でその地で生活しているが、四方百里には敢えて居住・放牧しようとしない。今に至っても六畜を放飼にしようとはしないのである。」とある。私が考えるに廣柔の地名は、隋の時に汶川と改称されたのであろう。

[三]索隠 皇甫謐が言うには「鯀は、帝顓頊の子にして、字は煕である。」と。また『連山易』には「鯀は崇に封じられた。」とある。故に『國語』は「崇伯鯀」と書いている。又系本には鯀を顓頊の子とするものもある。『漢書』律暦志には「顓頊から五代を経て鯀が生まれた。」とある。私が考えるに、鯀は既に堯と舜の二人に仕えており、顓頊の代からはかなり隔たっている。舜は顓頊の六代後の孫である。であるならば、鯀は顓頊の子ではない。恐らく班氏の言うことが最も真実に近いのであろう。