翔べないひよこのブログ

早稲田大学の三年生です。孔子の説く道を志して日々、儒学を学んでいます。専門としては古典中国学と明治漢学者の『論語』解釈になります。

『論語注疏』学而篇「有子曰〜」

今回は学而篇第二章の全文を掲載する。

<原文>

有子曰
<訓読>
有子曰く
<現代語訳>
有子が言うには
 
<原文>
孔子弟子有若
<訓読>
孔子の弟子有若なり。
<現代語訳>
孔子の弟子の有若である
 
<原文>
其為人也孝弟而好犯上者鮮矣
<訓読>
其の人と為りや、孝弟にして上を犯すことを好む者鮮なし。
<現代語訳>
其の人性が孝弟であって自分より目上の人間に逆らうことを好む者は少ない。
 
<原文>
鮮少也上謂凡在己上者
<訓読>
鮮は少なり。上は凡そ己の上に在る者を謂ふ。
<現代語訳>
鮮は少である。上とは自分より目上に位置する者を指す。
 
<原文>
言孝弟之人必恭順好欲犯其上者少也
<訓読>
言ふこころは孝弟の人は必ず恭順にして、其の上を犯さんと欲するを好む者は少なきなり。
<現代語訳>
言うこころは孝弟である者の性は恭順であって、それでいて目上の人間に逆らうことを好む者は少ない、ということである。
 
<原文>
不好犯上而好作乱者未之有也
<訓読>
上を犯すを好まずして乱を作すを好む者は未だ之有らざるなり。
<現代語訳>
目上の人間に逆らうことを好まないで、和を乱すことを好む者は未だ世に居たことがない。
 
<原文>
君子務本本立而道生
<訓読>
君子は本に務め、本立ちて道生ず。
<現代語訳>
君子は物事の根幹に務め、物事の根幹がしっかり確立されて初めて道が身に付くのである。
 
<原文>
本基也基立而後可大成
<訓読>
本は基なり。基立ちて而る後に大成すべし。
<現代語訳>
本は基盤である。基盤が確立されて後に大成するのである。
 
<原文>
孝弟也者其為仁之本
<訓読>
孝弟なる者、其れ仁の本為るか。と。
<現代語訳>
孝弟ということは、仁の根幹である。」と。
 
<原文>
先能事父兄然後仁道可大成
<訓読>
先んじて能く父兄に事へ、然る後に仁道大成すべし。
<現代語訳>
まず父兄に孝弟を尽くしよく仕えて、その後に仁道が大成されるのである。
 
<原文>
疏 有子曰至本與
<訓読>
有子曰より本與に至るまで。
<現代語訳>
有子曰から本與に至るまで。
 
<原文>
正義曰此章言孝弟之行也
<訓読>
正義に曰く「此の章は孝弟の行ひを言ふなり。
<現代語訳>
論語正義』によると「此の章は孝弟を行うことを述べている。
 
<原文>
弟子有若曰其為人也孝於父母順於兄長而好陵犯凡在己上者少矣
<訓読>
弟子の有若曰く「其の人と為りや、父母に孝に、兄長に順にして、凡そ己の上に在る者を陵犯するを好むは少なし。」と。
<現代語訳>
孔子の弟子の有若が言うには「孝弟である人物の性は、父母に孝を尽くし、年長者に対して従順であり、そうであるから自分より目上に位置する者を侮ることを好む者は少ない。」と。
 
<原文>
言孝弟之人性必恭順
<訓読>
言ふこころは孝弟の人の性は必ず恭順なり。
<現代語訳>
言うこころは孝弟である人の性格は必ず恭順である。
 
<原文>
故好欲犯其上者少也
<訓読>
故に其の上を犯さんと欲するを好む者は少なきなり。
<現代語訳>
故に目上の人間に逆らうことを好む者は少ないのである。
 
<原文>
既不好犯上而好欲作乱為悖逆之行者必無
<訓読>
既に上を犯すを好まずして、乱を作し悖逆の行いを為さんと欲するを好む者は必ずや無かるべし。
<現代語訳>
目上の人間に逆らうことを好まずして、和を乱して人倫に悖る行いを為すことを好む者は必ず存在しないものである。
 
<原文>
故云未之有也
<訓読>
故に「未だ之有らざるなり」と云ふ。」と。
<現代語訳>
故に「未だ之有らざるなり。」と言うのである。」とある。
 
<原文>
故君子務脩孝弟以為道之基本
<訓読>
故に君子は孝弟を以て道の基本を為すを脩むるに務む。
<現代語訳>
故に君子は孝弟を大切にして道の基本を脩めることに務める。
 
<原文>
基本既立而後道徳生焉
<訓読>
基本既に立ちて而る後に道徳生ず。
<現代語訳>
基本が完成して、その後に道徳が身につくのである。
 
<原文>
恐人未知其本何謂故又言孝弟也者其為仁之本歟
<訓読>
人の未だ其の本の何の謂ひかを知らざるを恐れ、故に又「孝弟なる者其れ仁の本為るか。」と言ふ。
 <現代語訳>
道の本というものが何を指し示しているかを知られないことを恐れて、故に「孝弟なる者其れ仁の本為るか。」と述べているのである。
 
<原文>
禮尚謙退不敢質言故云與也
<訓読>
禮は謙退を尚べば、敢へて質言せず。故に「與」と云ふなり。
<現代語訳>
禮は控えめであることを尚ぶので、敢えて明言しないのである。故に「與」と云うのである。
 
<原文>
孔子弟子有若
<訓読>
注に孔子の弟子の有若なりと。
<現代語訳>
注に孔子の弟子の有若のことである、とある。
 
<原文>
正義曰史記弟子傳云有若少孔子四十三歳鄭玄曰魯人
<訓読>
正義に曰く「『史記』弟子傳に云ふ「有若は孔子より四十三歳少し。」と。鄭玄曰く「魯人なり。」と。」と。
<現代語訳>
論語正義』によると「『史記』仲尼弟子列伝に「有若は孔子より四十三歳年少である。」とあり、鄭玄は「魯の人である。」と述べている。」である。
 
<原文>
注鮮少也
<訓読>
注に鮮は少なり、と。
<現代語訳>
注に鮮は少である、とある。
 
<原文>
正義曰釋詁云鮮罕也
<訓読>
正義に曰く「釋詁に云ふ「鮮は罕なり。」と。
<現代語訳>
論語正義』によると「『爾雅』釋詁篇に「鮮は罕である。」とある。
 
<原文>
故得為少
<訓読>
故に少と為し得たり。
<現代語訳>
故に少と読むことができたのである。
 
<原文>
皇氏熊氏以為上謂君親犯謂犯顔諫争
<訓読>
皇氏・熊氏に以為へらく、上は君親を謂ひ、犯は顔を犯して諫争すを謂ふ。」と。
<現代語訳>
礼記』皇氏篇・熊氏篇に「上とは君親のことを言い、犯は顔色を犯してでも強く諫めることである。」とある。
 
<原文>
今案注云上謂凡在己上者則皇氏熊氏違背注意其義恐非也
<訓読>

今案ずるに、注に「上は凡そ己の上に在る者を謂ふ。」と云へば、則ち皇氏・熊氏は注の意に違背す。其の義は恐らく非ならん。

<現代語訳>

注に「上は自分よりも目上の人間のことを言う。」とあるのを鑑みると、皇氏・熊氏の説は注の意味するところと違う。両氏の言う所はおそらく間違っている。
 
<補説>
何晏の注では「上」は「己の上に在る者」である。対して注疏が引く皇氏・熊氏の注では「君親を謂ひ」とありその後の文脈と合わせて読んでも、社会的地位が自分より上の人間という解釈になると思われる。注疏そのものは皇氏・熊氏の解釈を誤りとして何晏の注を採用しているが、では「己の上に在る者」とは具体的にどの様な人物を指すのだろうか。訳文としては単に「目上の人物」と書いたが、学而篇は学問について多く記す篇である。であるならば、ここで言う「己の上に在る者」は自分の師匠や高弟をも指すのではないだろうか。勿論君親も含むだろうが、それに止まらず同門に於ける上下関係をも含意しているのではないかと思う。
「犯」の解釈であるが、根本先生は古来君を諫めるにはその機嫌を取り、穏やかに諫めることが臣下の道であるとし、顔ばせを犯して強く諫めるは後世の人間が誇りとしたことであるとしている。*詳しくは知らぬが、墨家に近しい色を感じる。
又簡野先生はこの章を論じて、治国の本が教育にあり、教育の本は人をして仁徳を修めしむることにあり、而して仁徳の本は孝弟を務むることである。としている。