『論語注疏』学而篇「注包曰同門曰朋〜」④
<原文>
注包曰同門曰朋
<訓読>
注に包曰く「同門を朋と曰ふ」と。
<現代語訳>
注に「包咸が言うには「同門を朋という」。」とある。
<原文>
正義曰鄭玄注大司徒云同師曰朋同志曰友
<訓読>
正義に曰く「鄭玄、大司徒に注して「同師を朋と曰ふ。同志を友と曰ふ。」と云ふ。」と。
<現代語訳>
『論語正義』に言う「鄭玄が『周礼』大司徒篇に注釈を付けて「師を同じくする者を朋といい、志を同じくする者を友という。」と述べている。」と。
<原文>
然則同門者同在師門以授學者也
<訓読>
然らば則ち同門は同じく師門に在りて以て學を授くる者なり。
<現代語訳>
そうであるならば「同門」とは同じ師の門下にあって學問を授かる者をいう。
<原文>
朋即羣黨之謂
<訓読>
朋は即ち羣黨の謂ひなり。
<現代語訳>
「朋」とは仲間のことを言う。
<原文>
故子夏曰吾離羣而索居
<訓読>
故に子夏曰く「吾羣を離れて索居す。」と。
<現代語訳>
故に子夏が「自分は仲間と離れて一人寂しく暮らしている。」と述べている。
<原文>
鄭玄注云羣謂同門朋友也
<訓読>
鄭玄注して云ふ「羣は同門の朋友を謂ふなり。」と。
<現代語訳>
それに対して鄭玄が注して「羣とは同門の朋友のことである。」と言っている。
<原文>
此言有朋自遠方来者即學記云三年視敬業楽羣也
<訓読>
此こに「有朋自遠方来」と言うは、即ち學記に「三年業を敬しみ、羣を楽しむを視るなり。」と云ふことなり。
<現代語訳>
ここに「朋有り遠方自り来たる。」と言っているのは、『礼記』學記篇に「三年間、学問を敬しんで行い、朋友とそれを楽しむ様が見られること。」とあることと同じである。
<原文>
同志謂同其心意所趣郷也
<訓読>
同志は其の心意の趣郷を同じくする謂ひなり。
<現代語訳>
「同志」とは心に抱く想いを同じくする者のことを言うのである。
<原文>
朋疏而友親
<訓読>
朋は疏にして友は親し。
<現代語訳>
朋は助け合う存在で、友は親しい存在である。
*疏の解釈に自信が無いです。
<原文>
朋来既楽友即可知
<訓読>
朋來りて既に楽しければ、即ち友は知るべし。
<現代語訳>
朋が来て既に楽しんでいるならば、友は言うまでもなく推し量れるものである。
<原文>
故略不言也
<訓読>
故に略して言はざるなり。
<現代語訳>
故に友は省略して言及していないのである。
<原文>
注慍怒至不
<訓読>
注の慍怒より不怒に至るまで。
<現代語訳>
注の「慍怒」から「不怒」まで。
<原文>
正義曰云凡人有所不知君子不怒者其説有二
<訓読>
<原文>
一云古之學者為己已得先王之道含章内映而他人不見不知而我不怒也
<訓読>
一に云ふ「古の學者は己の為にし、已に先王の道を得れば、章を含み内に映じて、他人に見ず知られざるも、我は怒らざるなり。」と。
<現代語訳>
一つは「古の学者は己の為に学問をし、人に自分を知ってもらう為にしたわけではなかった。その為、已に先王の道を得ていれば、内面に綾を身につけそれが反映されているので、他人が見てくれず知ってくれずとも、気にすることなく、したがって怒ることがないのである。」である。
<原文>