翔べないひよこのブログ

早稲田大学の三年生です。孔子の説く道を志して日々、儒学を学んでいます。専門としては古典中国学と明治漢学者の『論語』解釈になります。

『史記』夏本紀第二 (1)

再び『史記』を読んでいくことにしました。「五帝本紀」は以前に読んだので、「夏本紀」からになります。見ての通り[]内が注釈になります。アンダーライン引いている箇所は訓読・訳に不安がある箇所です。

*三家注(集解・正義・索隠)の訳が無いってすごい不便ですね…

【原文】

 夏禹[一]、名曰文命。[二]禹之父曰鯀、鯀之父曰帝顓頊、[三]顓頊之父曰昌意、昌意之父曰黄帝。禹者、黄帝之玄孫而帝顓頊之孫也。禹之曽大父昌意及父鯀皆不得在帝位、為人臣。

[一]集解 諡法曰「受禅成功曰禹。」正義 夏者、帝禹封國號也。帝王紀云「禹受封為夏伯、在豫州外方之南、今河南陽翟是也。」

[二]索隠 尚書云「文命敷于四海」、孔安國云「外布文徳教命」、不云是禹名。太史公皆以放勳、重華、文命為堯、舜、禹之名、未必為得。孔又云「虞氏、舜名」、則堯、舜、湯皆名矣。蓋古者帝王之號皆以名、後代因其行、追而為諡。其實禹是名。故張晏云「少昊已前、天下之號象其徳、顓頊已来、天下之號因其名」。又按系本「鯀取有辛氏女、謂之女志、是生高密」。宋衷云「高密、禹所封國」。

 正義 帝王紀云「父鯀妻脩己、見流星貫昴、夢接意感、又呑神珠薏苡、胸坼而生禹。名文命、字密、身九尺二寸長、本西夷人也。大戴禮云『高陽之孫、鯀之子、曰文命』。揚雄蜀王本紀云『禹本汶山郡廣柔縣人也、生於石鈕』。」括地志云「茂州汶川縣石鈕山在縣西七十三里。華陽國志云『今夷人共營其地、方百里不敢居牧、至今猶不敢放六畜』。」按廣柔、隋改曰汶川。

[三]索隠 皇甫謐云「鯀、帝顓頊之子、字煕。」又連山易云「鯀封於崇」、故國語謂之「崇伯鯀」。系本亦以鯀為顓頊子。漢書律暦志則云「顓頊五代而生鯀」。按鯀既仕堯、與舜代系殊懸、舜即顓頊六代孫、則鯀非是顓頊之子。蓋班氏之言近得其實。

[訓読】 

夏の禹、名を曰く文命と。禹の父曰く鯀、鯀の父曰く帝顓頊、顓頊の父曰く昌意、昌意の父曰く黄帝なり。禹は、黄帝の玄孫にして帝顓頊の孫なり。禹の曽大父の昌意及び父の鯀皆帝位に在るを得ず、人臣たり。

[一]集解 諡法に曰く「受禅の成功を禹と曰ふ。」と。正義 夏は、帝禹の封ぜられし國の號なり。帝王紀に云ふ「禹封を受け夏伯と為る、豫州外方の南に在り、今の河南陽翟是なり。」と。

[二]索隠 尚書に云ふ「文命四海に敷く」と、孔安國云ふ「外に文徳教命を布く」と、是禹の名を云はず。太史公放勳、重華、文命を以て皆堯、舜、禹の名とす、未だ必ずしも得るを為さず。孔又云ふ「虞氏、舜を名とす」と、則ち堯、舜、湯皆名なり。蓋し古の帝王の號は皆名を以てし、後代は其の行いに因りて、送りて諡と為す。其の實禹は是名なり。故に張晏云ふ「少昊已前、天下の號は其の徳を象る、顓頊已来、天下の號は其の名に因む。」又按ずるに系本に「鯀有辛氏の女を取る、之の女を志と謂ひ、是高密を生む」と。宋衷云ふ「高密は、禹の封國せらるる所なり」と。

 正義 帝王紀云ふ「父鯀の妻脩己、流星の昴を貫くを見、夢に接して意に感じ、又神珠たる薏苡を呑むに、胸坼して禹生るる。名は文命、字は密、身九尺二寸長、本西の夷人なり。大戴禮に云ふ『高陽の孫、鯀の子は、文命と曰ふ。』と。揚雄の蜀王本紀に云ふ『禹は本汶山郡廣柔縣の人なり。』と。」と。括地志云ふ「茂州汶川縣に石鈕山、縣の西七十三里に在り。華陽國志に云ふ『今夷人共に其の地に營むも、方百里に敢えて居牧せず、今に至るも猶ほ敢えて六畜を放さず。』と」と。按ずるに廣柔は、隋に改められ汶川と曰ふ。

[三]索隠 皇甫謐云ふ「鯀は、帝顓頊の子にして、字は煕なり。」と。又連山易に云ふ「鯀は崇に封ぜらる。」と、故に國語之を謂ひて「崇伯鯀」と。系本亦鯀を以て顓頊の子と為す。漢書律暦志に則ち云ふ「顓頊より五代にして鯀生るる。」と。按ずるに鯀既に堯と舜に仕ふるも、代系殊に懸なる、舜即ち顓頊の六代孫なり、則ち鯀は是顓頊の子に非ず。蓋し班氏の言其の實を得ること近し。

 

【現代語訳】

夏の禹は名を文命といった。禹の父は鯀、鯀の父は帝顓頊、帝顓頊の父は昌意、昌意の父は黄帝であった。禹は黄帝の玄孫にして帝顓頊の孫である。禹の曽祖父である昌意と父の鯀は帝位に就くことが叶わず人臣であった。

[一]集解 諡法によると「先代から帝位を譲り受けることが出来たことを禹と言う。」である。正義 夏は帝禹の封建された國の名である。『帝王紀』によると「禹は國に封じられて夏伯となった。その國は豫州の外側に位置していて、今の河南陽翟がそうである。」と。

[二]索隠 『尚書』に「文命は天下を広く治めた」とある。孔安國が言うには「天下に文徳と先君の教訓を広く行き届かせたのである。」と。どちらも禹の名を言ってはいない。太史公は放勳、重華、文命を以て堯、舜、禹の名としているが、未だ確たる根拠は無い。孔安國がまた言うには「虞氏の名が舜である」と。つまり堯、舜、湯はどれも名なのである。恐らく古の帝王の號は名を以てしていたのだが、時代が下るにつれて行いに因んで諡としたのであろう。そうなると禹は名である。故に張晏が言うには「少昊より以前は、天下の號はその徳に因んでいたが、顓頊以降は名に因むようになったのである。」と。又私が考えるに、系本に「鯀は有辛氏の娘を娶った。この娘の名を志と謂い、この娘が高密を生んだ。」とある。宋衷が言うには「高密は禹が封國された所である。」と。

 正義 『帝王紀』によると「父である鯀の妻の脩己は、流星が昴を貫くのを見、又神珠と呼ばれる薏苡を服用した所胸が裂けて禹が生まれた。名は文命、字は密、身長は九尺二寸であった。元々は西方の夷人である。『大戴禮』には『高陽の孫にして、鯀の子は、文命という』とある。揚雄の『蜀王本紀』によると『禹は元々汶山郡廣柔縣の人』である。」である。『括地志』には「茂州汶川縣にある石鈕山は縣の西方七十三里の距離に位置する。」と書かれている。『華陽國志』によると「今夷人の人たちと共同でその地で生活しているが、四方百里には敢えて居住・放牧しようとしない。今に至っても六畜を放飼にしようとはしないのである。」とある。私が考えるに廣柔の地名は、隋の時に汶川と改称されたのであろう。

[三]索隠 皇甫謐が言うには「鯀は、帝顓頊の子にして、字は煕である。」と。また『連山易』には「鯀は崇に封じられた。」とある。故に『國語』は「崇伯鯀」と書いている。又系本には鯀を顓頊の子とするものもある。『漢書』律暦志には「顓頊から五代を経て鯀が生まれた。」とある。私が考えるに、鯀は既に堯と舜の二人に仕えており、顓頊の代からはかなり隔たっている。舜は顓頊の六代後の孫である。であるならば、鯀は顓頊の子ではない。恐らく班氏の言うことが最も真実に近いのであろう。

 

『論語注疏』学而篇第七章「子夏曰賢賢易色〜」

今回は学而篇の第七章を扱います。現代語訳は注疏と合わした訳を心がけましたが、根本先生の『論語講義』に全く異なる解釈が書かれていたので、最後<補説>にて紹介したいと思います。赤字は阮元による校勘です。

 

<原文>

子夏曰賢賢易色
<訓読>
子夏曰く賢を賢として色に易へ、
<現代語訳>
子夏が述べた、「美人を好むように有徳の人物を好み
 
<原文>
孔曰子夏弟子卜商也
<訓読>
孔曰く、子夏は弟子の卜商なり。
<現代語訳>
孔安国が言うには、「子夏は孔子の弟子の卜商である。
 
<原文>
言以好色之心好賢則善
<訓読>
言ふこころは、好色の心を以て賢を好めば則ち善なり、と。
<現代語訳>
言うこころは、美人を好む心の方向を変えて有徳の人物に向けて好めば善である。」と。
 
<原文>
事父母能竭其力事君能致其身
<訓読>
父母に事へて能く其の力を竭くし、君に事へて能く其の身を致す。
<現代語訳>
父母に仕えては力を尽くし、君主に仕えては自身の身を惜しまず仕える。
 
<原文>
孔曰盡忠節不愛其身
<訓読>
孔曰く、忠節を盡すに其の身を愛まず、と。
<現代語訳>
孔安国が言うには、「忠節を尽くすのに我が身を惜しんではいけない。」と。
 
<原文>

與朋友交言而有信雖曰未學吾必謂之學矣

<訓読>

朋友と交わり、言ひて信有らば、未だ學ばずと曰ふと雖も、吾必ず之を學びたりと謂はん、と。
<現代語訳>

朋友と交流するにあたり、自身の発言を実行し、それで信用を得ているようであれば、その人が未だ學問をしていない人だと言っても、私は必ずこの人を學問をした人だと言おう」と。

 

<原文>

疏 子夏曰至之學矣

<訓読>

「子夏曰」から「之學矣」に至るまで。
<現代語訳>
「子夏曰」から「之學矣」に至るまで。
 
<原文>
此章論生知美行之事
<訓読>
正義に曰く、「此の章は生まれながらに美行を知るの事を論ず。」と。
<現代語訳>
論語正義』によると、「此の章は人は生まれながらに善行がなんたるか知っている事を論じている。」とある。
 
<原文>
賢賢易色者上賢謂好尚之也下賢謂有徳之人
<訓読>
「賢を賢として色に易へ」とは、上の賢は之を好尚するを謂ふなり。下の賢は有徳の人なり。
<現代語訳>
賢を賢として色に易へ」とは、上の「賢」の字はその対象を好む事を言い、下の「賢」の字は有徳の人を言っている。「
 
<原文>
易改也色女人也
<訓読>
「易」は「改」なり。「色」は「女人」なり。
<現代語訳>
「易」の字は「改」の意である。「色」の字は「女人」を表している。
 
<原文>
女有姿(美)色男子悦之
<訓読>
女美色有りて、男子之を悦ぶ。
<現代語訳>
女人が美人だと男は悦ぶものである。
 
<原文>
故經傳之文通謂女人為色
<訓読>
故に經傳の文通じて、女人を謂ひて「色」と為す。
<現代語訳>
故に経の本文でも、注釈の傳でも一貫して女人を言うのに「色」としているのである。
 
<原文>
人多好色不好賢
<訓読>
人は色を好みて賢を好まざる多し。
<現代語訳>
一般に美人を好めども有徳の人を好む者は多くはないものである。
 
<原文>
能改易好色之心以好賢則善矣
<訓読>
能く好色の心を改易するを以て、賢を好めば則ち善なり。
<現代語訳>
美人を好むこころを改めて、その好む先を有徳の人に向けて、それを好めば善なのである。
 
<原文>
故曰賢賢易色也事
<訓読>
故に曰く「賢を賢として色に易ふへ」と。
<現代語訳>
故に「美人を好むように有徳の人物を好み」と述べているのである。
 
<原文>
父母能竭盡其力者謂小孝也
<訓読>
「父母に事へて能く其の力を竭くし」とは、小孝なり。
<現代語訳>
「父母に事へて能く其の力を竭くし」とは孝ではあるが、小さな孝である。
 
<原文>
言為子事父雖未能不匱但竭盡其力服其勤労也
<訓読>
言ふこころは、子と為りて父に事ふるに、未だ匱からざること能はずと雖も、但だ其の力を盡し其の勤労に服するのみなり。
<現代語訳>
言うこころは、子が父に仕えるのに、未だ至らないところが残っていると雖も、自身の力を尽くして勤労に励むだけである。
 
<原文>
事君能致其身者言為臣事君雖未能将順其美匡救其悪但致盡忠節不愛其身若童汪踦也
<訓読>
「君に事へて能く其の身を致す」とは、言ふこころは、臣と為りて君に事ふるに、未だ其の美に将順して其の悪を匡救する能はずと雖も、但だ忠節を致し盡して、其の身を愛まざること、童汪踦の若くするのみなり。
<現代語訳>
「君に事へて能く其の身を致す」とは、言うこころは臣となって君に仕えるのに、君の徳に付き従いその過ちを正して救うことができないと雖も、忠節を尽くして自分の身を顧みないこと、童汪踦のごとくあるだけである。
 
<原文>
與朋友交言而有信者謂與朋友結交雖不能切磋琢磨但言約而毎有信也
<訓読>
「朋友と交わり、言ひて信有らば」とは、朋友と結び交わり、切磋琢磨する能はずと雖も、但だ言は約して毎に信有るを謂ふなり。
<現代語訳>
「朋友と交わり、言ひて信有らば」とは、朋友と交流して、互いに切磋琢磨することはできないと雖も、言った事は守り、何か発言する度に信用を得るだけのことを述べているのである。
 
<原文>
雖曰未學吾必謂之學矣者言人生知行此四事雖曰未嘗従師伏膺學問然此為人行之美
(者)雖學亦不是過
<訓読>
「未だ學ばずと曰ふと雖も、吾必ず之を學びたりと謂はん」とは、言ふこころは、人生まれながらに此の四事を行ふを知るならば、未だ嘗て師に従ひて學問を伏膺せざると曰ふと雖も、然れども此れ人の行ひの美たる者なれば、學と雖も亦是に過ぎず。
<現代語訳>
「未だ學ばずと曰ふと雖も、吾必ず之を學びたりと謂はん」とは、生まれながらにして、以上の四つのことを行う事を知っているならば、未だ嘗て師匠に従って學問したことを心に留めて忘れないという経験をしていなくとも、四事は人の行いとして善なるものであるから、學問と雖もこれより優れているということはない。
 
<原文>
故吾必謂之學矣
<訓読>
故に「吾必ず之を學びたりと謂はん」となり。
<現代語訳>
故に「吾必ず之を學びたりと謂はん」とあるのである。
 
<原文>
註孔曰子夏弟子卜商
<訓読>
註の「子夏は弟子の卜商なり。」。
<現代語訳>
註の「子夏は弟子の卜商なり。」について。
 
<原文>
正義曰案史記仲尼弟子傳云卜商字子夏衛人也
<訓読>
正義に曰く、「案ずるに、史記仲尼弟子傳に「卜商、字は子夏、衛人なり、と云ふ。
<現代語訳>
論語正義』によると、「私が考えるに『史記』仲尼弟子傳に「卜商、字は子夏、衛人なり、と言われている。
 
<原文>
孔子四十四歳
<訓読>
孔子より少きこと四十四歳なり。
<現代語訳>
孔子より四十四歳若く、
 
<原文>
孔子既没居西河教授為魏文侯師
<訓読>
孔子既に没し、西河に居して教授す。魏の文侯の師と為る。」と云ふ。」と。
<現代語訳>
孔子が死んだ後は黄河の西に住み、教えを授けていた。魏の文侯の師となった。」とある。」と述べられている。
<補説>
・「賢を賢として色に易へ」の箇所を根本先生は、「易」を「軽んずる」と読んでおられます。これは妻を娶る際のことを言ったもので、即ち妻を娶るというのは一家の大事でありますから、顔色の美しい方を軽く取り、徳のある方を重く取る。賢徳ある妻を娶れば、一家もよく治り、父母にもよく事えることができます。そのため「父母に事へて能く其の力を竭くし」の主語は子だけでなくその妻をも含みます。何となれば、男子は外に出て事を行うものですので、家に居て両親を取り扱うのは妻だからです。
 
・「父母に事へて能く其の力を竭くし、君に事へて能く其の身を致す。」の箇所は、第六章の疏で引かれていた『孝経』の一節「父に事へては孝、故に忠は君に移すべし。兄に事へては弟、故に順は長に移すべし。」に通じます。
 
・「朋友と交わり、言ひて信有らば」は第四章の「朋友と交はりて信ならざるか。」と相通じます。

『論語注疏』学而篇第六章「子曰弟子入則孝出則弟〜」

今回は学而篇第六章を扱っていきます。短いながらも、学問といかに向き合うかの示唆を与えてくれる章だと思っています。

なお、本文の現代語訳に関しては根本通明先生の読みを参考にさせて頂いてます。

<原文>

子曰弟子入則孝出則弟
<訓読>
子曰く、弟子入りては則ち孝、出でては則ち弟。
<現代語訳>
孔子先生が仰った、「若い者は家の中に居ては修養して善に至ることを目指し、外に出ては年長者に失礼のないようにする。
 
<原文>
謹而信汎愛衆而親仁
<訓読>
謹みて信、汎く衆を愛して仁に親しむ。
<現代語訳>
よく考えてものを言い、言ったことは必ず実行して偽りのないようにする。別なく大勢の人と交わり、その中でも仁者とはより一層の付き合いを心がける。
 
<原文>
行有餘力則以學文
<訓読>
行ひて餘力有らば、則ち以て文を學ぶべし。」と。
<現代語訳>
以上のことを行って、まだ修養する余力が有れば、その時は先人の文章を學べばよい。」と。
 
<原文>
馬曰文者古之遺文
<訓読>
馬曰く、文は古の遺文なり。
<現代語訳>
馬融によると、「文」とは先王の遺文である。
 
<原文>
疏 
子曰弟子至以學文
<訓読>
「子曰く弟子」から「以て文を學ぶべし」に至るまで。
<現代語訳>
「子曰く弟子」から「以て文を學ぶべし」に至るまで。
 
<原文>
正義曰此章明人以徳焉本學為末
<訓読>
正義に曰く「此の章、人は徳を以て本とし、學を末と為すことを明らかにす。」と。
<現代語訳>
論語正義』によると、此の章は人は徳を育てることを本として、文を學ぶことは末であることを明らかにした章である。
 
<原文>
男子後生為弟
<訓読>
男子の後に生るるを弟と為す。
<現代語訳>
男子で長男より後に生まれる者が弟である。
 
<原文>
言為人弟與子者入事父兄則當孝與弟也
<訓読>
言ふこころは、人の弟と子為る者は入りて父兄に事へるは則ち當に孝と弟たるべきなり。
<現代語訳>
言うこころは、人の弟・子である者は家の中に居て父兄に仕えるに、その姿勢は「孝」と「弟」でなければならない。
 
<原文>
出事公卿則當忠與順也弟順也
<訓読>
出でて公卿に事へるは則ち當に忠と順たるべきなり。弟は順なり。
<現代語訳>
家の外に出て公卿に仕えるに、その姿勢は「忠」と「順」でなければならない。「弟」とは「順」である。
 
<原文>
入不言弟出不言忠者互文可知也
<訓読>
入りて弟と言はず、出でて忠と言はざるは、互文にして知るべきなり。
<現代語訳>
本文で家に居て「弟」と言わず、外に出て「忠」と言わないのは、互文の形式で察することができるからである。
 
<原文>
孔子云出則事公卿入則事父兄孝経云事父孝故忠可移於君事兄弟故順可移於長是也
<訓読>
下に孔子、「出ては則ち公卿に事へ、入りては則ち父兄に事へる」と云ひ、孝経に「父に事へて孝ならば、故に忠は君に移すべし。兄に事へて弟ならば、故に順は長に移すべし。」と云ふは是なり。
<現代語訳>
子罕篇に「家の外に出ては公卿に仕え、家の中に入っては父兄に仕える。」とあり、『孝経』廣揚名章に「父に仕えて「孝」でならば、君に仕えても「忠」であるはずだし、兄に仕えて「弟」であるならば、年長者に仕えても「順」であるはずだ。」とあるのはこのことである。
 
<原文>
謹而信者理兼出入
<訓読>
謹みて信」とは、理は出入を兼ぬ。
<現代語訳>
「謹みて信」とは、言行は家の内外を問わず共通しているものであり、
 
<原文>
言恭謹而誠信也
<訓読>
言ふこころは、恭謹にして誠信なり。
<現代語訳>
恭謹にして誠信でなければならない。
 
<原文>
汎愛衆者汎者寛博之語
<訓読>
「汎く衆を愛す」とは、汎は寛博の語なり。
<現代語訳>
「汎く衆を愛す」とは、「汎」は広く緩やかな語である。
 
<原文>
君子尊賢而容衆或(故)博愛衆人也
<訓読>
君子は賢を尊び、衆を容るる。故に博く衆人を愛するなり。
<現代語訳>
君子は賢者を尊び、大勢を受け容れる。故に博く大衆を愛し受け容れるのである。
 
<原文>
而親仁者有仁徳者則親而友
<訓読>
「而して仁者に親しむ」とは、仁徳有る者に則ち親しみ之を友とするなり。
<現代語訳>
「而して仁者に親しむ」とは、仁徳がある者に親しんでこれを友人とすることである。
 
<原文>
能行已上諸事仍有閒暇餘力則可以學先王之遺文
<訓読>
能く已上の諸事を行ひて、仍ほ閒暇餘力有らば、則ち以て先王の遺文を學ぶべし。
<現代語訳>
よくよく上記のことを行ってそれでも暇と余力があるならば、その時は先王の遺文を學ぶべきである。
 
<原文>
若徒學其文而不能行上事則為言非行偽也
<訓読>
若し徒らに其の文を學びて、而れども上事行ふ能はずんば、則ち言は非行にして偽なり。
<現代語訳>
もし、徒らに先王の遺文を學んでも、上記の行いができていなければ、言は行いと一致せず、偽となる。
 
<原文>

注言古之遺文者則詩書禮楽易春秋六経是也

<訓読>

注に「古の遺文」と言ふは詩書禮楽易春秋の六経、是なり。

<現代語訳>

注に「古の遺文」とあるのは『詩経』『尚書』『禮記』『楽記』『易経』『春秋』を指している。
 
 
<補説>

赤字で「故」と記した箇所は「或」を誤字とする宋本に拠ります。また注疏との内容の都合上、「汎く衆を愛して仁に親しむ。」と訓読しましたが、「汎く衆を愛して親しむ。仁を行ひて〜」と読んでもいいかなと思いました。

 
 

『論語注疏』学而篇第五章「子曰道千乗之國〜」⑤

また少し間が空いてしまいました。今回で第五章の注疏は最後です。

 

<原文>

包曰作事使民至奪農務
<訓読>
「包曰作事使民」から「奪農務」に至るまで。
<現代語訳>
「包曰作事使民」から「奪農務」に至るまで。
 
<原文>
正義曰云作事使民必以其時者謂築都邑城郭也
<訓読>
正義に曰く「事を作し民を使うに必ず其の時を以てす」と云ふは、都邑城郭を築くを謂ふなり。
<現代語訳>
論語正義』によると、「事業を起こし、民を使役するにはその時節をよく選ぶ必要がある。」とあるが、この事業とは都邑・城郭の建築のことを指しているのである。
 
<原文>
以都邑者人之聚也國家之藩衛百姓之保障不固則敗不脩則壊
<訓読>
都邑は人の聚なるを以て、國家の藩衛・百姓の保障にして、固からずんば則ち敗れ、脩めずんば則ち壊れる。
<現代語訳>
都邑は人が大勢集まるところで、国家を防衛し百姓を安寧させる場であるので、堅固でなければ必ず外敵の侵入を防ぐことはできず、修復していなければちょっとしたことで壊れてしまう。
 
<原文>
故雖不臨寇必於農隙備其守禦無妨農務
<訓読>
故に寇に臨まずと雖も、必ず農隙に備え其れを守禦し、農務を妨げる無し。
<現代語訳>
故に外敵と対峙していなくとも、農期以外の時期を見計ってこれを堅固にし、そうすることで農期に駆り出されることもなく、外敵の侵入により生活を追われることもない。
 
<原文>
春秋荘二十九年左氏傳曰凡土功龍見而畢務戒事也
<訓読>
春秋荘二十九年左氏傳に「凡そ土功、龍見えて、務めを畢へ、事を戒めるなり。」と曰ひ、
<現代語訳>
『春秋左氏伝』荘公二十九年に、「凡そ土木の事業を為そうとするには、龍星が現れて今年度の農務が終わり、それまでは土木事業を民に課すことは控えるべきである。」とある。
 
<原文>
註云謂今九月周十一月龍星角亢辰見東方三務始畢戒民以土功事
<訓読>
註に「謂ふところは今の九月、周の十一月に龍星の角・亢、辰に東方に見え、三務始めて畢はる、民を戒むるに土功の事を以てす。」と云ふ。
<現代語訳>
これに対して注釈は「言うこころは、今の九月、周の時代の十一月に龍星という星座の角と亢が辰の時刻に東側に見えると、今年度の農務を終え、次年度の農務の準備をするのである。農期に民に控えさせるのは土木事業に関してである。」と述べている。
 
<原文>
火見而致用注云大火心星次角亢見者致築作之物
<訓読>
「火見えて陽を致す」の注に「大火・心星の角・亢に次て見ゆる者。築作の物を致す。」と云ふ。
<現代語訳>
「火見えて陽を致す」に対する注釈は「大火・心星と呼ばれる星宿の角・亢の次に位置する星のことである。物を建設し作ることを指す。」と述べている。
 
<原文>
水昏正而栽注云謂今十月定星昏而中於是樹板幹而興作
<訓読>
「水昏に正して栽す。」の注に「謂ふところは今の十月に定星昏にして中す。是に於いて板幹を樹てて興作す。」と云ふ。
<現代語訳>
「水昏に正して栽す。」に対する注釈は「言うこころは今の十月に定星が黄昏に南中する。この時期に材木を用意して土木の事業を興すのである。」と述べている。
 
<原文>
曰至而畢注云日南至微陽始動故土功息
<訓読>
「日至て畢はる。」の注に「日南に至て、微陽始めて動く。故に土功息む。」と云ふ。
<現代語訳>
「日至て畢はる。」に対する注釈は「冬至になり夕日の位置が始めて動くと、その年度の農務は終わるのである。」と述べている。
 
<原文>
若其門戸道橋城郭牆塹有所損壊則特随壊時脩之
<訓読>
若し其の門戸・道橋・城郭・牆塹に損壊する所有らば、則ち特に壊時に随ひて之を脩む。
<現代語訳>
もし門戸・道橋・城郭・牆塹(塀と堀)が損壊していたならば、特に損壊した年度内に修復する。
 
<原文>
故僖二十年左傳曰凡啓塞従時是也
<訓読>
故に僖二十年左傳に「凡そ啓・塞は時に従ふ。」と曰ふは、是なり。
<現代語訳>
故に『春秋左氏伝』の僖二十年に「「凡そ啓(門・戸・道・橋)・塞(砦・城郭)の建設は時節に従ふ。」と言うのはこのことである。
 
<原文>
王制云用民之力歳不過三日
<訓読>
王制に「民の力を用ふるは、歳に三日を過ぎず。」と云ふ。
<現代語訳>
『禮記』王制篇に「民の力を使役するのは年に三日を超えてはならない」とある。
 
<原文>

周禮均人職云凡均力政以歳上下豊年則公旬用三日焉中年則公旬用二日焉無年則公旬用一日焉是皆重民之力而不妨奪農務也 

<訓読>

周禮均人職に「凡そ力政を均しくするは、歳を以て上下す。豊年は則ち公は旬に三日を用ふ。中年には則ち公は旬に二日を用ふ。無き年には則ち公は旬に一日を用ふる。」と
云ふは、是皆民の力を重んじて、農務を奪はざることなり。
<現代語訳>
『周禮」均人職篇に「民を使役する政のバランスを取るのは年によって変動する。即ち、豊年だと公は十日に三日の割合で民を使役し、まずまずの収穫年だと十日に二日の割合で民を使役し、凶作の年だと十日に一日の割合で民を使役するのである。」とある。いずれも、民の力を重視して農務の時を奪わないようにしているのである。
 
<補説>
長くなりましたが今回を以て第五章は終わりになります。「千乗の國」についての馬融・
包咸の二氏の説をそれぞれが依拠する経書をも紹介しながら、そして農事に関する戒めを『春秋左氏伝』を引きながら説いています。この箇所の宿星に関する部分は中々何が何を意味しているのかわからなく、間違っている部分もあるかと思います。若しご指摘等ありましたら是非コメント・リプライの方にてお願いします。
次回からは第六章に入ります。

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

 

『論語注疏』学而篇第五章「子曰道千乗之國〜」④

一週間ほど間が空いてしまいました。今回も相変わらず、学而篇第五章の注疏の訓読訳になります。

 

<原文>

必有二法者聖王治國安不忘危
<訓読>
必ず二法有る所以は聖王の國を治むるに、安にして危を忘れざればなり。
<現代語訳>
出軍の法が必ず二つあるのは、聖王が国を統治するにあたり、平和であっても有事を忘れずない為である。
 
<原文>
故今所在皆有出軍之制
<訓読>
故に今の在る所は皆出軍の制有るなり。
<現代語訳>
故に現在、どの国にも出軍の制度があるのである。
 
<原文>
若従王伯之命則依國之大小出三軍二軍一軍也
<訓読>
若し王伯の命に従はば、則ち國の大小に依り、三軍・二軍・一軍を出だすなり。
<現代語訳>
もし王・伯の命令に従えば、国の大小に依って、三軍・二軍・一軍を出軍させるのである。
 
<原文>
若其前敵不服用兵未已則盡其境内皆使従軍
<訓読>
若し其れ前敵服せず、兵を用ふること未だ已まざれば、則ち其の境内を盡し皆従軍せしむ。
<現代語訳>
もしそれであっても、敵が降伏することなく、戦がまだ止まないようであれば、領内の人民全てを動員し、皆従軍させる。
 
<原文>
故復有此計地出軍之法
<訓読>
故に復た此の計地出軍の法有り。
<現代語訳>
故に此の土地に関する計測には出軍の法があるのである。
 
<原文>
但郷之出軍是正故家出一人
<訓読>
 但し郷の出軍は是正にして、故に家より一人を出だす。
<現代語訳>
ただし、郷の出軍は決まっているので、一家につき一人を従軍させる。
 
<原文>
計地所出則非常故成出一車
<訓読>
地の出だす所を計るは則ち非常なり、故に成は一車を出だす。
<現代語訳>
土地の産出できる軍事資源を計ることは非常である。故に四方十里の土地からは車一台を徴発するのである。
 
<原文>
以其非常故優之也
<訓読>
其の非常なるを以て故に之を優にするなり。
<現代語訳>
非常のことであるので、このことは要なのである。
 
<原文>
包曰道治也者以治国之法不惟政教而已下文道之以徳謂道徳故易之但云道治也
<訓読>
包曰く「「道」は「治」なり。」とは、治国の法は惟に政教なるのみにならず、下文に之を道びくに得を以てすとは道徳を謂ふを以て、故に之を易へて、但だ「「道」は「治」なり。」と云ふなり。
<現代語訳>
包咸の「「道」は「治」である。」とは、治国の法は政教のみによるのではなく、為政篇第三章の「之を道くに徳を以てす。」という文は道徳のことを指していることから、この文を念頭に置いて、「「道」は「治」である。」と述べているのである。
 
<原文>
云千乗之國百里之國也者謂夏之公侯殷周上公之國也
<訓読>
「千乗の國は百里の國なり」と云ふは、夏の公・侯、殷周の上公の國を謂ふなり。
<現代語訳>
「千乗の国とは百里四方の国である。」と述べているのは、夏の公・侯、殷周の上公の国を指しているのである。
 
<原文>
者井田方里為井者孟子云方里而井井九百畝是也
<訓読>
「古の井田は方里を井に為す」と云ふは、孟子に「方里にして井、井は九百畝なり」と云ふは、是なり。
<現代語訳>
「古代に行われた井田は、一里四方の田地を井として」と述べているのは、『孟子』に「方里にして井、井は九百畝なり」と言っているが、このことである。
 
<原文>
云十井為乗百里之國適千乗也者此包以古之大國不過百里百里賦千乗故計之毎十井為一乗
 <訓読>
十井を乗と為す。百里の国は千乗に適するなり。」と云ふは、此れ包は古の大國は百里を過ぎず、百里を以て千乗を賦とするを以て、故に之を計るに十井毎に一乗と為す。
<現代語訳>
「十井を乗とした。百里の国は千乗の国に匹敵する。」と述べているのは、包咸は古代の大国は百里を超えることはなく、百里ごとに千乗の賦役を課したことから、十井ごとに一乗とした。
 
<原文>
是方一里者十為一乗則方一里者百為十乗
<訓読>
是方一里なる者十を一乗と為せば、則ち方一里なる者百は十乗と為る。
<現代語訳>
四方一里十個分を一乗とすれば、四方一里百個分は十乗である。
 
<原文>
開方之法方百里者一為方十里者百毎方十里者一為方一里者百其賦十乗
<訓読>
開方の法、方百里なる者一を方十里なる者百と為し、毎方十里なる者一を方一里なる者百と為す、其の賦は十乗なり。
<現代語訳>
開方の法を用いると、四方百里一個分は四方十里百個分となり、四方十里一個分を四方一里百個分とすれば、その賦役は十乗となる。
 
<原文>
方十里者百則其賦千乗地與乗數適相当
<訓読>
方十里なる者百は、則ち其の賦は千乗、地と乗の數と適して相当たる。
<現代語訳>
四方十里百個分だと、その賦役は千乗であり、土地面積と乗の数値は互いに合致している。
 
<原文>
故曰適千乗也
<訓読>
故に「千乗に適する。」と曰ふなり。
<現代語訳>
故に「千乗の国に匹敵する。」と言うのである。
 
<原文>
云融依周禮包依王制孟子者馬融依周禮大司徒文以為諸侯之地方五百里侯四百里以下也
<訓読>
「融、周禮に依る。包、王制・孟子に依る。」と云ふは、馬融は周禮大司徒の文に依りて、以為へらく諸侯の地は方五百里、侯は四百里以下なり、と。
<現代語訳>
「馬融は『周禮』に依拠し、包咸は『礼記』王制篇と『孟子』に依拠する。」と述べているのは、馬融は『周禮』大司徒の文に依拠して、思うに諸公の土地は四方五百里、諸侯の土地は四方四百里以下としている。
 
<原文>
包氏依王制云凡四海之内九州州方千里州建百里之國三十七十里之國六十五十里國百有二十凡二百一十國也
<訓読>
包氏は王制に「凡そ四海の内に九州、州は方千里、州ごとに百里の國を三十、七十里の國を六十、五十里の國を百有二十建つ。凡そ二百十國なり。」と云ふに依る。
<現代語訳>
包咸は『禮記』王制篇に「四海の内に九州あり、一州は四方千里であり、一州ごとに四方百里の国を三十、四方七十里の国を六十、四方五十里の国を百二十余りを建国できる。およそ二百十国である。」とあるのに依拠している。
 
<原文>
孟子云天子之制地方千里公侯之制皆方百里伯七十里子男五十里
<訓読>
孟子に「天子の制、地は方千里、公侯の制は皆方百里、伯は七十里、子・男は五十里」と云ふ。
<現代語訳>
又『孟子』に「天子の制では、領地は四方千里、公・侯の制では、領地は四方百里、伯は七十里、子・男は五十里である。」とある。
 
<原文>
包氏據此以為大國不過百里不信周禮有方五百里百里之封也
<訓読>
包氏此れに據りて以為へらく、大國は百里を過ぎず、周禮に方五百里・四百里の封有るを信ぜざるなり。
<現代語訳>
包咸はこれらの文に依拠して、思うに、公・侯の大国は百里を超えず、『周禮』にある四方五百里・四百里の封土を信じることができなかったのである。
 
<原文>
馬氏言名包氏不言名者包(何)氏避其父名也
<訓読>
馬氏名を言ふも、包氏名を言はざるは、何氏其の父の名を避ければなり。
<現代語訳>
馬融の名は述べ、包咸の名は述べないのは、何晏が父の名である「咸」を避けたのである。
 
<原文>
云義疑故兩存焉者以周禮者周公致太平之書為一代大典
<訓読>
「義疑わしき故に両つ在す。」と云ふは、周禮は周公の太平を致すの書なるを以て、一代の大典なり。
<現代語訳>
「「千乗の道」の意味する所は明らかでないので、代表する二つの解釈を収録した。」と述べているのは、『周禮』は周公が嘗て太平を成し遂げたことを記した書物であって、周一代の大典である。
 
<原文>
王制者漢文帝令博士所作
<訓読>
王制は漢の文帝博士をして作らしめる所なり。
<現代語訳>
『禮記』王制篇は前漢の文帝が博士に命令して編纂させたものである。
 
<原文>
孟子者鄒人也名軻師孔子孫子
<訓読>
孟子は鄒人なり。名は軻、孔子孫子思を師とす。
<現代語訳>
孟子は鄒の人である。名は軻。孔子の孫である子思に師事した。
 
<原文>
治儒術之道著書七篇亦命世亜聖之大才也(漢の趙岐、孟子題辞
<訓読>
儒術の道を治め、書七篇を著し、亦命世・亜聖の大才なり。
<現代語訳>
儒学の道を修めて、七篇の書物を著した。「命世亜聖の才」と呼ばれる。
 
<原文>

今馬氏包氏各以為據難以質其是非莫敢去取於義有疑故兩存其説也

<訓読>

今馬氏・包氏各々以て據と為せば、以て其の是非を質し難く、敢へて去取すること莫く、義に於いて疑ひ有り、故に兩つながら其の説を存するなり。   
<現代語訳>

今、馬融・包咸それぞれに依拠する所があり、その為その是非は判別し難く、敢えて選びとることはできない。だがその意味する所には若干の疑問があるので、両者の説を並記したのである。

 

<補説>

構成の都合上だいぶ長くなってしまいました…恐らく次回で第五章は終わると思います。

孟子のことを指している「命世」とは傑出した才能を持つ人という意味もあり、このままでも孟子には該当しますが、赤字で書いた通り趙岐の言葉を受けて繋げて読みました。

注釈の理解をするには経書の知識・理解が必須ですが、今回はそれが如実に出ている感がしました。楽しかったです。

 

『論語注疏』学而篇第五章「子曰道千乗之國〜」③

今回も前回の続きです。冒頭部にまた土地に関する話があります。

 

<原文>

又以此方百里者一六分破之毎分得廣十六里長百里
<訓読>
又此の方百里なる者一を以て六分して之を破らば、毎分に廣さ十六里、長さ百里を得る。
<現代語訳>
又、此の方百里一個分を六等分すると、一つにつき広さが十六里、長さが百里となる。
 
<原文>
引而接之則長六百里廣十六里也
<訓読>
引きて之を接せば則ち長さ六百里廣さ十六里なり。
<現代語訳>
これの形を変えて一列に組み換えると長さ六百里、広さは変わらず十六里である。
 
<原文>
半折之各長三百里将埤前三百里南西兩邊是方三百一十六里也
<訓読>
之を半折すれば各長さ三百里、将に前の三百里の南西兩邊を埤さんとすれば、是方三百一十六里なり。
<現代語訳>
これを半分にすると、各々長さは三百里であり、片方の南側の辺と西側の辺を増やすことができれば、三百十六里となる。
 
<原文>
然西南角猶缺方十六里者一也
<訓読>
然れども西南の角は猶缺くこと方十六里なる者一なり。
<現代語訳>
だが、西南の角には方十六里一個分が欠けている。
 
<原文>
方十六里者一也方十六里者一為
<訓読>
方十六里なる者一は、方一里なる者二百五十六と為す。
<現代語訳>
方十六里一個分は方一里が二百五十六個分である。
 
<原文>
然曏割方百里者為六分餘方一里者四百
<訓読>
然れども曏に方百里なる者を割りて六分と為し、餘すこと方一里なる者四百なり。
<現代語訳>
だが、先ほど方百里を六等分したので、餘るところは方一里が四百個分である。
 
<原文>
今以方一里者二百五十六埤西南角猶餘方一里者百四十四
<訓読>
今方一里なる者二百五十六を以て、西南の角を埤さば猶餘すこと方一里なる者百四十四。
<現代語訳>
ここで方一里二百五十六個分を西南の角に足し加えれば、残りは方一里が百四十四個分である。
 
<原文>
又復破而埤三百一十六里兩邊則毎邊不復得半里
<訓読>
又復破りて三百十六里の南西兩邊を埤さば、則ち毎邊は復た半里を得る。
<現代語訳>
又、これを分割して三百十六里の各辺を増やせば、各辺は半里を得ることになる。
 
<原文>
故云三百一十六里有畸也云
<訓読>
故に三百一十六里有畸と云ふなり。
<現代語訳>
故に「三百十六里あまりに広がる」と言うのである。
 
<原文>
云唯公侯之封乃能容之者案周禮大司徒云諸侯之地封疆方五百里諸侯之地封疆方四百里諸伯之地封疆方三百里諸子之地封疆方二百里諸男之地封疆方百里
<訓読>
「唯だ公・侯の封のみ。乃ち能く之を容る。」と云ふは、案ずるに『周禮』大司徒に「諸侯の地は封疆方五百里。諸侯の地は封疆方四百里。諸伯の地は封疆方三百里。諸子の地は封疆方二百里。諸男の地は封疆方百里。」と云ふ。
<現代語訳>
「公・侯の位だけが、この賦役を受け入れられるのである。」と言うのは、『周禮』大司徒に「諸侯の地は封疆方五百里、諸侯の地は封疆方四百里。諸伯の地は封疆方三百里。諸子の地は封疆方二百里。諸男の地は封疆方百里。」とあり、
 
<原文>
此千乗之國居地方三百一十六里有畸
<訓読>
此の千乗の國は「居地の方三百十六里有畸」なり。
<現代語訳>
千乗の国とは「居住地だけでも三百十六里あまりに広がる」であるので、
 
<原文>
伯子男自方三百而下則莫能容之
<訓読>
伯・子・男は方三百より下がれば則ち能く之を容れる莫し。
<現代語訳>
伯・子・男は三百よりも少ないので、これに当てはまることはない。
 
<原文>
故云唯公侯之封乃能容之
<訓読>
故に「唯だ公・侯の封のみ。乃ち能く之を容る。」と云ふ。
<現代語訳>
故に「公・侯の位だけが、この賦役を受け入れられるのである。」と言うのである。
 
<原文>
大國之賦亦不是過焉者坊記云制國不過千乗
<訓読>
「大国の賦と雖も亦是れ焉に過ぎず。」と云ふは、坊記に「國を制するに千乗を過ぎず」と云ふ。
<現代語訳>
「大国の賦役と言ってもこの程度のものなのである。」と言うのは、『禮記』坊記篇に「国を治めるに千乗を超えてはいけない」とある。
 
<原文>
然則地雖廣大以千乗為限
<訓読>
然るに則ち地廣大なりと雖も千乗を以て限りと為す。
<現代語訳>
故に「大国の賦役と言ってもこの程度のものなのである。」と言うのである。
 
<原文>
故云大國之賦亦不是過焉
<訓読>
故に「大国の賦と雖も亦是れ焉に過ぎず。」と云ふ。
<現代語訳>
故に「大国の賦役と言ってもこの程度のものなのである。」と言うのである。
 
<原文>
司馬法兵車一乗甲士三人歩卒七十二人計千乗有七萬五千人則是六軍矣
<訓読>
司馬法にては「兵車一乗に、甲士三人、歩卒七十二人なれば計るに千乗に、七萬五千人有れば、則ち是れ六軍なり。」と。
<現代語訳>
司馬法』には、「兵車一乗に、甲士三人、歩卒七十二人なので千乗になるように計算すると、七萬五千人になり、則ち是れは六軍である。」とある。
 
<原文>
周禮大司馬序官凡制軍萬有二千五百人為軍王六軍大國三軍次國二軍小國一軍
<訓読>
周禮大司馬序官にては、「凡そ軍を制するに、萬二千五百人を軍と為す。王は六軍、大國は三軍、次國は二軍、小國は一軍」とあり、
<現代語訳>
『周禮』大司馬序官には「凡そ軍を制するのに、一万二千五百人を一軍とする。王は六軍、大國は三軍、次國は二軍、小國は一軍である。」とある。
 
<原文>
魯頌悶宮云公車千乗明堂位云封周公於曲阜地方七百里革車千乗及坊記與此文皆與周禮不合者禮天子六軍出自六郷
<訓読>
魯頌・悶宮にては「公車は千乗」と云ひ、明堂位に「周公を曲阜に封じ、地は方七百里、革車千乗」と云ひ、坊記と此の文と皆周禮と合はざるは、禮に「天子の六軍は六郷より出ず」とある。
<現代語訳>
詩経』魯頌・悶宮には「公車は千乗」とあり、『禮記』明堂位篇には「周公を曲阜の地に封じた。其の土地は方七百里であり、革車千乗を動員できた」とある。坊記篇・明堂位篇とみな『周禮』で異なるのは『禮記』に「天子の六軍は六郷より出る。」とあるからである。
 
<原文>
萬二千五百家為郷萬二千五百人為軍
<訓読>
萬二千五百家を郷と為し、萬二千五百人を軍と為す。
<現代語訳>
一万二千五百家を郷と為し、一万二千五百人を軍と為す。
 
<原文>
地官小司徒云凡起徒役無過家一人是家出一人郷為一軍此則出軍之常也
<訓読>
地官小司徒に「凡そ徒役を起こすに家ごとに一人を過ぐることは無し」と云ふは、是家ごとに一人を出だし、郷は一軍と為し、此れ則ち出軍の常なり。
<現代語訳>
『周禮』地官小司徒篇に「民を使役するのに一家から一人以上を動員することはない」とあるのは、家ごとに一人を徴兵し、郷を一軍とするのは軍隊を動員する際の常套である。
 
<原文>
天子六軍既出六郷則諸侯三軍出自三郷
<訓読>
天子の六軍、既に六郷を出づれば、則ち諸侯の三軍は三郷より出づる。
<現代語訳>
天子の六軍が六郷にて出軍すれば、則ち諸侯の三軍は三郷にて出軍する。
 
<原文>
悶宮云公徒三萬者謂郷之所出非千乗之衆也
<訓読>
悶宮に「公徒は三萬」と云ふは郷の出づる所を謂ひ、之の出づる所千乗の衆に非ざるなり。
<現代語訳>
詩経』悶宮に「公徒は三万人」とあるのは、郷を出軍させる所を指し、千乗の兵車のことを指しているのではない。
 
<原文>
千乗者自謂計地出兵非彼三軍之車也
<訓読>
千乗とは自り地を計りて兵を出だすを謂ひ、彼の三軍の車には非ざるなり。
<現代語訳>
千乗とは土地を計測して兵をどれほど徴兵できるかを指し、三軍の車のことではない。
 
<原文>
二者不同故數不相合
<訓読>

二者同じからず、故に數相合はざるなり。

<現代語訳>

両者は同一ではないのである。故に数が合わなかったのである。

 

<補説>

長文になりました。今回はいつもに増して読解に自信がないです…

『論語注疏』学而篇第五章「子曰道千乗之國〜」②

前回からの続きで今回は疏から始まります。

 

<原文>

子曰道至以時
<訓読>
子曰くから時を以てすに至るまで。
<現代語訳>
子曰くから時を以てすに至るまで。
 
<原文>
正義曰此章論治大國之法也
<訓読>
正義に曰く「此の章大國を治むるの法を論ずるなり。」と。
<現代語訳>
論語正義』に「此の章は大国を統治する法について論じている。」とある。
 
<原文>
馬融以為道謂為之政教
<訓読>
馬融道を為すを以て、之政教を為すと謂ふ。
<現代語訳>
馬融は「道を為す」を解釈して、「政教を為す」とし、
 
<原文>
千乗之國謂公侯之國方五百里百里者也
<訓読>
千乗の國は公・侯の國五百里、四百里なるを謂ふなり。
<現代語訳>
千乗の国とは公・侯の国で四百里から五百里である、としている。
 
<原文>
言為政教以治公侯之國者擧事必敬慎與民必誠信省節財用不奢侈而愛養人民以為國本作事使民必以其時不妨奪農務
<訓読>
言ふこころは、政教を為すを以て公・侯の國を治むる者は、事を擧ぐるに必ず敬慎なるべく、民の與に必ず誠信なるべく、財用を省節するべく、奢侈をせず、而して人民を愛養し、以て國の本と為し、事を作し民を使ふに必ず其の時を以てし農務を妨奪せざるべし。
<現代語訳>
馬融の言うところは、政教を為して公・侯の国を治める者は、政を為すに必ず慎み、民のために必ず誠の心を尽くし、財を節約するために贅沢をせず、人民を愛し養い、人民が国の根幹であるとする。事業を行う為に人民を使役するに及んでは十分に時期を鑑みて農業を妨害しその作業時間を奪わないようにしなければならない。
 
<原文>
此其為政治國之要也
<訓読>
此れ其れ政を為し國を治めるの要なり。
<現代語訳>
このことは政を為して国を治めるための要である。
 
<原文>
包氏以為道治也
<訓読>
包氏以為へらく「道」は「治」なり。
<現代語訳>
包咸は「道」を解釈して「治」とし、
 
<原文>
千乗之國百里之國也
<訓読>
千乗の國は百里の國なり。
<現代語訳>
千乗の国は百里の国のこととしている。
 
<原文>
夏即公侯殷周惟上公也餘同
<訓読>
夏には即ち公・侯、殷・周には惟だ上公のみなり。餘は同じ。
<現代語訳>
夏には公・侯の官があり、殷・周には上公の官が置かれた。他の官職に関しては同じである。
 
<原文>
注馬曰道至存焉
<訓読>
注の「馬曰道」から「存焉」に至るまで。
<現代語訳>
注の「馬曰道」から「存焉」に至るまで。
 
<原文>
正義曰以下篇子曰道之以政故云道謂為之政教
<訓読>
正義に曰く「下篇に「子曰く之を道びくに政を以てす」とあるを以て、故に「道は之が政教を為すを謂ふ。」と云ふ。」と。
<現代語訳>
論語正義』に「『論語』の為政篇に「孔子先生が「民を導くのに政を以てす。」と仰った。」とあることから、馬融は「「道」は政教を為すことを言うのである。」としたのである。」とある。
 
<原文>
史記齊景公時有司馬田穰苴善用兵
<訓読>
史記』に「齊の景公の時、司馬田穰苴は善く兵を用ひる」と有る。
<現代語訳>
史記』に「齊の景公の時、司馬田穰苴は用兵の術に優れていた。」とある。
 
<原文>
周禮司馬掌征伐
<訓読>
『周禮』、司馬は征伐を掌るとす。
<現代語訳>
『周禮』に司馬は征伐を掌る、とある。
 
<原文>
六國時齊威王使大夫追論古者兵法附穰苴於其中凡百五十篇號曰司馬法
<訓読>
六國の時、齊の威王大夫をして古の兵法を追論せしめ、穰苴を其の中に附し、凡そ百五十篇、號して『司馬法』と曰ふ。
<現代語訳>
戦国の時、齊の威王は大夫に命じて古代の兵法に意見を続けて論じさせ、穰苴もその対象とし、約百五十篇、『司馬法』と名付けた。
 
<原文>
此六尺曰歩至成出革車一乗皆彼文也
<訓読>
此の「六尺曰歩」から「成出革車一乗」に至るまで皆彼の文なり。
<現代語訳>
此の「六尺曰歩」から「成出革車一乗」に至るまでは全て『司馬法』の文章である。
 
<原文>
引之者以證千乗之國為公侯之大國也
<訓読>
之を引く者は千乗之國を以て證するに公・侯の大國と為す。
<現代語訳>
司馬法』を引用する者は千乗の国を説明するのに公・侯の大国であるとする。
 
<原文>
云然則千乗之賦其地千成者以成出一乗千乗故千成
<訓読>
然らば則ち千乗の賦は其の地千成にして」と云ふは、成は一乗を出だすを以て、「千乗」なるが故に「千成」なり。
<現代語訳>
「そうであるならば千乗の賦を課される国は千成の国である」と言うのは、成の単位は一乗の革車を産出できることを基準としているので、「千乗」は「千成」となるのである。
 
<原文>
云居地方三百十六里有者以方百里者一為方十里者百
<訓読>
「居地の方三百十六里有畸なるは」と云ふは、方百里なる者一を以て、方十里なる者百と為す。
<現代語訳>
居住地だけでも三百十六里あまりに広がる」と言うのは、四方百里で一つの塊と見るとそれは四方十里百個分である。
 
<原文>
方三百里者三三而九則為百里者九
<訓読>
方三百里なる者、三三にして九なれば、則ち方百里なる者九と為す。
<現代語訳>
四方三百里と言うのは、三×三で九であるから四方百里九つ分である。
 
<原文>
合成方十里者九百得九百乗也
<訓読>
成は方十里なる者九百を合すれば、九百乗を得るなり。
<現代語訳>
成は四方十里九百個分であるので、九百乗を得ることができる。
 
<原文>

計千乗猶少百乗方百里者一也

<訓読>

計るに千乗に猶ほ少なきこと百乗、方百里なる者は一なり。

<現代語訳>

計算してみると千乗には百乗少ない、方百里一個分である。

 

<補説>

最後の「百里者一為方十里者百〜」以降の話はフォロワーさんの助言をお借りして読みました。ありがとうございます。

次回も冒頭部は土地の面積に関する話になりそうです。