翔べないひよこのブログ

早稲田大学の三年生です。孔子の説く道を志して日々、儒学を学んでいます。専門としては古典中国学と明治漢学者の『論語』解釈になります。

『論語注疏』学而篇「云時者學者以時誦習之〜』③

<原文>

云時者學者以時誦習之者皇氏以為凡學有三時
<訓読>
「時は學ぶ者時を以て之を誦習す」とは、皇氏以為く凡そ學ぶに三時有り、と。
<現代語訳>
「時は學ぶ者時を以て之を誦習す」とは皇氏によると「およそ学問をするに三つの時がある。」と。
 
<原文>
一身仲時
<訓読>
一は身中の時なり。
<現代語訳>
一の時は身中の時である。
 
<原文>
學記云發然後禁則扞格而不勝
<訓読>
學記に「發して然る後に禁ずれば、則ち扞格して勝へず。
<現代語訳>
礼記』學記篇によると「發して然る後に禁ずれば、則ち扞格して勝へず。
*下線部の意味取れず
 
<原文>
時過然後學則勧苦而難成
<訓読>
時過ぎて、然る後に學ばば、則ち勧苦して成し難し。」と云ふ。
<現代語訳>
時が経ってその後に学べば、勤めても成功しがたい。」と、言っている。
 
<原文>
故内則云十年出就外傳居宿於外學書計
<訓読>
故に内則に「十年出でて外傳に就き、外に居宿し、書計を學ぶ。
<現代語訳>
そのため『礼記』内則篇に「十年家の外に出て、外傳に就き、外部に居し、書と計算を学ぶ。
 
<原文>
十有三年學楽誦詩舞
<訓読>
十有三年、楽を學び詩を誦し勺を舞ふ。
<現代語訳>
十三年経って楽を学び詩を唱え勺を舞う。
 
<原文>
十五成童舞象是也
<訓読>
十五、成童にして象を舞ふ。」と云ふは是なり。
<現代語訳>
十五にして成人して象を舞う。」とあるのはこのことである。
 
<原文>
二年中時
<訓読>
二は年中の時なり。
<現代語訳>
二の時は年中の時である。
 
<原文>
王制云春秋教以禮楽冬夏教以詩書
<訓読>
王制に「春秋は教ふるに禮楽を以てし、冬夏は教ふるに詩書を以てす。」と云ふ。
<現代語訳>
礼記』王制篇に「春・秋は教えるのに禮・楽を、冬・夏は教えるのに詩・書を以てする。」とある。
 
<原文>
鄭玄云春夏陽也詩楽者聲聲亦陽也
<訓読>
鄭玄は「春夏は陽なり。詩楽は聲、聲も亦陽なり。
<現代語訳>
鄭玄はこれに対して「春・夏は陽の気である。詩・楽は聲であり、聲は亦陽の気である。
 
<原文>
秋冬陰也書禮者事事亦陰也
<訓読>
秋冬は陰なり。書禮は事、事も亦陰なり。
<現代語訳>
秋・冬は隠の気である。書・禮は事であり、事は亦陰の気である。
 
<原文>
互言之者皆以其術相成
<訓読>
之を互言するは皆其の術を以て相成すなり。」と云ふ。
<現代語訳>
これを交互に言ってあるのは、皆陰陽の術を以て物事を成しているからである。」と言っている。
 
<原文>
又文王世子云春誦夏弦秋學禮冬読書
<訓読>
又文王世子に「春は誦し、夏は弦し、秋は禮を學び、冬は書を読む」と云ふに、
<現代語訳>
また『礼記』文王世子篇に「春は誦して、夏は弦を弾き、秋は禮を学び、冬は書を読む。」とあり、
 
<原文>
鄭玄云誦謂歌楽也
<訓読>
鄭玄「誦するは歌楽を謂ふなり。
<現代語訳>
これに対して鄭玄は「誦とは歌楽を言っている。
 
<原文>
弦謂以絲播詩
<訓読>
弦するは絲を以て詩を播するを謂ふなり。
<現代語訳>
弦とは絲を弾いて詩を広めることを言う。
 
<原文>
陽用事則學之以聲陰用事則學之以事
<訓読>
陽事を用ふれば、則ち之を學ぶに聲を以てし、陰事を用ふれば、則ち之を學ぶに事を以てす。
<現代語訳>
陽の気を用いれば、学問するのに聲を以てし、陰の気を用いれば、学問するのに事を以てする。
*事が具体的に何を指すのかわからず
 
<原文>
因時順気於功易也
 <訓読>
時に因りて気に順ふは、功に於いて成し易きなり。」と云ふ。
<現代語訳>
時に応じて気に順うのは、成すべき事として易しいことである。と述べている。
 
<原文>
三日中時
<訓読>
三は日中の時なり。
<現代語訳>
三は日中の時である。
 
<原文>
學記云故君子之於學也蔵焉脩焉息焉遊焉是日日所習也
<訓読>
學記に「故に君子の學に於けるや、焉に蔵し、焉に脩め、焉に息ひ、焉に遊ぶ」と云ふは、是日日に習ふ所なり。
<現代語訳>
礼記』学記篇に「故に君子が学問というのは、書を所蔵し、その中身を脩め、休息をとり、十分に遊ぶことである。」と言うのは、是日々に習うことである。
 
<原文>
言學者以此時誦習所學篇簡之文及禮楽之容日知其所亡月無忘其所能所以為説懌也
<訓読>
言ふこころは學ぶ者は此の時を以て學ぶ所の篇簡の文、及び禮楽の容を誦習し、日に其の亡き所を知り、月に其の能くする所忘るる無きは説懌と為す所以なり。
<現代語訳>
言うこころは、学ぶ者がこの三つの時を以て、学ぶ所の書物の文章及び禮楽の有り様を唱え学習し、日々の生活にその至らない所を見出し、月ごとに能くするように努力することを忘れないのは、喜ばしい理由である。
 
<原文>
譙周云説深而楽浅也
<訓読>
譙周云ふ「悦は深くして楽は浅きなり。」と。
<現代語訳>
譙周が言うには「悦はその度合いが深く楽は浅い。」と。
 
<原文>
一日在内曰説在外曰楽
<訓読>
一に曰く「内に在るを説と曰ひ、外に在るを楽と曰ふ。」と。
<現代語訳>
一本によると「感情が内に留まっているのを「説」と言い、外に現れているのを「楽」と言う。」という。
 
<原文>
亦者凡外境適心則人心説楽
<訓読>
「亦」と言ふは凡そ外境心に適へば、則ち人心説楽す。
<現代語訳>
「亦」というのは、およそ外の世界が自らの心に適えば、人の心は説楽するものである。
 
<原文>
可説可楽之事其類非一
<訓読>
説ぶべく、楽しむべくのこと、其の類は一に非ず。
<現代語訳>
悦ばしいこと、楽しいことの類いは一種類ではない。
 
<原文>
此學而時習有朋自遠方来亦説楽之事耳
<訓読>
此の「學而時習」「有朋自遠方来」も亦説楽の事なるのみ。
<現代語訳>
この「學而時習」「有朋自遠方来」も亦悦楽の一種である。
 
<原文>
故云亦
<訓読>
故に「亦」と云ふ。
<現代語訳>
故に「亦」と言うのである。
 
<原文>
猶易云亦可醜也亦可喜也
<訓読>
猶ほ易に「亦恥ずべきなり」「亦喜ぶべきなり」と云ふがごとし。
<現代語訳>

猶、『易経』に「亦恥ずかしいことである。」「亦喜ばしいことである。」という如きである。